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『情報哲学入門』のための練習問題 no.2

 また映画の話で恐縮だが、同時代の諸状況を多かれ少なかれ受けとめ思うところをぶつけているのが、表現文化の面白いところだ。じっさい、前回の練習問題もそうだったが、昨今のSF映画は、こんにちのデジタル技術や人工知能の行方がどうなるかについて教えられるところが少なくない。

  アメリカまでの飛行機のなかで、見逃していた『ザ・クリエーター/創造者』を見ることができた。
  SF映画は個人的にもけっこう好きだし、上のような次第もあるので、一定程度の期待はあったものの、それでもなめてかかっていたといわざるをえない。あまりのショックで、観終わったあと、これはなんの映画だったのだろうと狭い座席で身をくねらせながらあれこれ考えを巡らしてとまらなくなった。時差ボケなど気にしていられない。
  派手なスペクタクルが興味をそそったのでない。また、『ブレード・ランナー』はもちろん、『フィフス・エレメント』、『第九地区』や『チャッピー』、はたまた『地獄の黙示録』や『キリング・フィールド』、あげくのはてには『蜘蛛の巣城』まで、古今東西の名作の引用が目白押しだと筆者は踏んだが、頭を直撃したのは、そういうシネフィルが好む記号でもない。物語である。

  アジア系「AIロボット」(アジア系AIロボットってナンヤネン、だが)を、アメリカ人が虐殺していく。ベトナム戦争時の枯葉作戦が思い起こされもし、それにかかわる映画や報道写真などでこれまで目にしてきた田畑や山々が広がるなかでの爆撃のシーンにそっくりだ。簾型のレーザー探知装置を用いて標的を定め、激しい空爆を繰り返していく、そんな場面があれもこれもと押し寄せてくるだろう。
  欧米とおぼしき軍隊は、「AIロボットは「人間」ではなくただの「機械」なので「殺せ、殺せ」」の大合唱だ。ベトナム戦争、アフガン紛争、イラク攻撃、みんなこんな感じだったのかなと思うと、寒気がする。凄まじいディストピアだ。
  ちなみに、物語世界は、ベトナムのような東南アジアのような上記のような光景だけではない。『ブレードランナー』の世界を明るみに出したようなビル群のシーンもあって、お約束のように、日本語の広告も出ている。
  加えて、アジア系AIロボットのコミュニティがもつ戦闘部隊のリーダーは、渡辺謙が演じているわけだが、彼が部下の会話するときは日本語である。
  そうであるので、この映画の語る物語にアメリカと中国の対立といった図式が潜在的に駆動しているととるのは必ずしも当を得ていないのだ。アジアがざっくりと一括りにされてしまっているということだ。日本人も他人事ではないと思わざるをえない。というか、居心地の悪さはただごとではない。

  そういえば、2000年代に入ってまもなく、タイの若者が、過剰になった承認要求から、「I LOVE YOU」というスパムメールを世界に向けて発信してしまい、世界規模に広がり大騒動になったことが思い返される。インターネット技術へのテクノフォビア(テクノロジーへの恐怖感)が、アジア人の仕業という受け止められ方で拡散したのである。前世紀末のテクノオリエンタリズムというフレーズでは間に合わないような、グローバルに拡がった社会現象だった。

 政治学では新たな「地政学」が謳われているが、この映画は、人工知能の地政学なのだろうか。人工知能は、技術というものは、国境を越えて普遍的に、つまりは公平にないし一律に作動するはずではないのか。そんなことを考えると、いやいや、この映画はなんともややこしいストーリーテリングで出来上がっていたように感じた。

 情報技術の未来がもたらす政治経済上の不安をめぐって、「自由」「尊厳」「民主主義」などをめぐって、マイケル・サンデル、フランシス・フクヤマ、ユヴァル・ノア・ハラリがそれぞれについて論じているさまを、『情報哲学入門』では解説している。
 それを踏まえると、『ザ・クリエーター/創造者』が語るディストピア世界が、観る者を戸惑わせるのは、人工知能ロボットに対する、アメリカを中心とした西洋側の民主主義の停止なのか、アジア人(ロボット)の尊厳への蹂躙なのか、はたまた、人間が成り立たしめている人類が、人工知能に対する自由を禁じてしまうさまなのか。
 この問いについて思考をめぐらしてみることも、情報哲学に関する、ちょっとした練習問題となる。


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