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人を裁きたい気持ちをどうしたものか

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『Emily in Paris』を見た方はわかると思いますが、写真左のアメリカ人エミリーはパリに出張で来ていて、滞在中に右のフランス人、カミーユと友人になります。

そういうベースがあっての、

「カミーユとエミリー、どっちがオーセンティック?」という質問。

実にどうでもいい、そもそもどっちでもいいこの質問に、450のコメントがついている。

何をそんなに言いたいことがあるのかとコメントを見てみると、律義に、どっちがオーセンティックだという回答がズラーーっと並んでいてびっくりした。

「どうでもいい質問に450人もわざわざ答えてる不思議」とコメントをつけてストーリーにあげようとスクショをした2秒後、あれ、待てよと。

その投稿も実にどうでもいいな、とギリギリで気づいた。

ということで結局投稿はしなかったのだけど、ここで発覚したのは、「わざわざ回答してる人」を私が「しょうもない」と裁いていること。そしてその根本的な意図は、私はそんなしょうもないことしない、それ以上だよというのを自分の周囲にアピールしたがっているということ(笑)

私は3年くらい前に海外ドラマか何かで「ジャッジ」=「人を裁く」という概念に出会ってから、どうして人を裁いてしまうんだろうと自分の言動を顧みてやめるようにしていたし、そして世間で言われる通り、それをやめたらかなり自分自身、ありのままで生きやすくなった。

だからもう自分は満たされているし、他者を貶めて優越感を感じたいフェーズなどとうに終わったと思っていたのだけど、どうもまだ残っているらしい。

というわけで自分の心の闇を見つけてしまったようだが、これはどうしたものか。

というのも、ここ1~2年、生きていて特に不満もなければ、以前のように他人と自分を比べて劣等感に苛まれることもほぼなく、幸せに生きている。

なにか治すべきなんだろうか?それともこれはもう、感情を持つ人間として許容範囲の心の動きなんだろうか?(笑)というのをしばらく考えてみたが、もう面倒なので、これくらいはオッケーということにした。

特に悩みもなく生きているんだから、わざわざ闇を発掘しに行かなくてもよい。人間、うわ、ああなりたくないな、と思うから、そうならずに済むわけだし、ジャッジしちゃいけないんだといちいち自分を責めるのも不健康な気がする。

だけど一つ新しいルールとして、わざわざ表に出さない、ということにした。自分ひとりでうわ、と思っておくか、身内で話すくらいにしとこうと。

他人からよく思われたいっていうのも、他人のことをしょうもな、と思うのも、おそらく人間当たり前のことでしょう(誰)。そういう前提で、自分に対しても他人に対しても、適度に許容して生きていればいいかな、とこのへんで着地しておこう。

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