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心をシステムとして考えてみたら・・・

人生では色々なシチュエーションが訪れます。

イベントと言うと期待感がありますが、人生のイベントとしては、「苦痛」が伴う場合が多いようです。

「生まれて、育って、老いて、死の三徴候(瞳孔散大、呼吸停止、心拍停止)」が現れるだけが人生であるならば、「人生のイベント」は、「苦痛」だけが必ず訪れる世界なのかもしれませんね。

私の場合は、「身近な者の病」との形で、「人生のイベント」が訪れた事がありす。

その時点から、「人はなぜ?病気をするのか?」との人生論文の課題を頂いた様に感じています。

何一つ、心を痛める事もなく、称賛されながら送れる人生が存在するのでしょうか?

それはそれで疑問でもあります。

しかし、何かあったとしても、「何もなかったよ。」と笑顔で答える人はいると思っています。

その返答を誰かが聞くまでには、それぞれで受けるショックや、問題とも思わない閾値(いきち:境界となる値)はそれぞれで違いがあると感じています。

心が感じる閾値、数値的に表す事は出来ませんし、似たような体験があれば、それを乗り越える心の体力が高い場合もあります。

この閾値は、それぞれの人(心)で値と条件が違いますから、同じアプローチでは測れないのも特徴です。

心は絶えず成長を望んでいますが、地上の環境や状態に伴う表面意識の影響により、心の一部に歪みができる場合があります。

その歪みは、苦しみと悲しみの継続を助長し、自他を分ける事は良くありませんが、他の一面を自己のものとして認識をすると、最悪では帰って来れない所まで行ってしまう事もあります。

ある条件設定があり、同じ様な感じ方をする心を有していても、その条件設定に近ければ近いほど、その影響は大きくなるのも特徴ですが、なぜ心が揺れ動き、なぜ不安定さを呈するのかを自覚するには、それなりの学習と自分の心に対しての客観視ができてからになります。

家庭でも学校でも教えてくれない事ですので、普通は気付かずに通り過ぎる人もいらっしゃるかと思います。

しかし、誰かへメッセージや発信をするにあたっては、ある「一言」の影響も考えるべきだと思ったりもしますし、結局その一言に対して、謝罪をしても、事実は残ってしまいます。

ただ、事実であるならば曲げる訳にもゆかない場合があります。

この世の都合で、「心は脳の作用の一部」と考えるのは間違った見解ですし、脳波を測れば、思考する事によって何らかの計測がされるから、心は脳の働きの一部と考えて相違ないと実存論として科学的だと考えるのかもしれません。

ただし、「その思考や感情の発信源は何か?」と問うた場合に、外部刺激による中枢経由の反応と答えるのであるならば、それを打ち消す逆の刺激を入れれば、トラウマを抱える事もないという事になります。

0+1=1
1-1=0

心に対しての外部からの刺激とは、加算する事は可能でも、減算する事はできません。

加算された刺激により、持ったトラウマは、新たな刺激を加算する事で減算は不可能だと算数的にも証明が付きます。

1を0にするには、1を減算する事と同じですが、心から減算する事は、事実上不可能だと考えます。

0+(-1)=-1
-1+1=0

また、0の状態から-1を加算して、その-1に1を加算すると数学的には0になります。

しかし、前者も後者も、0から0に戻っていますが、時間は止まる事なく進んで、0が0になるまでにも色々な事象は積み上げられていきます。

双方の先頭の0は同じ0ではないと言う事になります。

なぜ、その様に言えるのか?

精神的な安定は0では表現できませんし、何らか心の状態が安定しない場合に人は、それを観察する事によって、正常からの逸脱、いわば障害と認知するのだと考えます。

そして、人間の心とは非常に複雑でもあり、単純なものでもあります。

機嫌を直すだけであれば、甘い物が好きな人は、好みの甘い物を差し出せば、機嫌が直る場合もありますし、その機嫌が悪くなった閾値が高ければ、機嫌が直るのにも時間と甘い物の量が増えるかもしれません。

しかし、その機嫌が悪くなった原因となった人が、謝罪し甘い物を用意してくれれば、時短になり可能性はあると思います。

なぜなら、悪い事をしてしまったと相手に自覚があり、謝罪(ごめんなさいと、甘い物(誠意))があり、相手がやった事の理由と反省が見て取れるのであれば、その人の許せる限界より小さな事(許す閾値を超えていなければ)理解して許す事ができるのだと思います。

そして、その許しの閾値や目前にした事象の受け入れられる閾値を越して、強く印象として残り、精神的、社会的、生活的にも悪影響を及ぼしている状態をトラウマが発生した状態と考えているのだと思います。

「トラウマ」との言葉は、社会的にも認知されている言葉となり、自己防衛の為に、「トラウマになりそう・・」などと言われるのではないかと推論しますが、単に実存心理学や実存哲学として考えるのであれば、「存在するものは恒久性を維持しようとする。」との概念を用いるのなら、トラウマは消えないと言っているのと変わらないでしょう。

そして、大きな出来事を経験しても、同じ様な感覚を持たない人間に対して、「冷たい人間」、「人非人」などと言うのではないでしょうか?

同じ様な境遇でも、自分と同じ立場に居ない人を、「あなたは強いからいいわよね。」と言い放ってしまうのではないかと思ってしまいます。

平等主義を唱える人もいますが、ある意味で平等は存在すると思っています。

無料で太陽の恩恵を受ける事ができ、何回呼吸しても地球は人間たちに対して許してくれています。

これは、生を受けてから死の三徴候が診られるまで、変わる事のない平等です。

その点を考えた時に、もう一つの平等は、チャンスの平等ではないでしょうか?

それは、物心が付いてから、死の三徴候が現れるまで、物理的に精神的にチャンスは平等に与えられているのだと感じています。

60年ほども地球で人間をやっていると、色々なイベントが立ち上がってきます。

地球は、太陽は、宇宙は私達に何を望んでいるのでしょうか?

彼らにも意識があるとするならば、その見返りとは何なのでしょうか?

夜空に輝く星々が美しく見える理由は、宇宙そのものの命を感じているからではないでしょうか?

何一つ見返りを求めることなく、無限の広さを持ち、兆をこす銀河と星々を活かし、遠くの星から見れば、見つける事さえ出来ない、地球の中の人間にすら何らかのチャンスを与えてくれています。

小さな自分が全てを理解し納得できる事はないかもしれませんが、その時に同じ境遇や、同じ痛みを持つものに対して、傷の舐め合いではなく、優しい言葉を掛ける事が出来た時に、
-1+∞=∞
として、地球と太陽そして宇宙が望む人間の心の進化があるのだと考えています。

そして、人間は、祈りにより∞と繋がり、実存主義の世の中であっても心の成長とともに、過去の出来事として、記憶として残るだけなのだと結論づけこの話を終わります。

長文、最後まで読んで頂きありがとうございました。





『ヘルメス・タロット』を、外注に出す為に資金を集めています。 タロットが身近になるように、怖くない「棒人間」で絵を描いています。 カード番号は画中はローマ数字、絵の下には算用数字、カード名も日本語です。 上下に正逆位置の意味を書いています。 誰もが幸せになる事を目指しています!