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使徒行伝第6章(新約聖書)への違和感

聖書を勧められて読んだのですが、いくつか違和感を覚えました。
一番大きかった違和感は、使徒行伝の第6章でした。

この後半は、レンブラントの描いた「聖ステファノの石打ち」の直前のシーンになります。

https://www.tabitobijutsukan.com/レンブラント 「聖ステファノの石打ち」


使徒行伝 第6章(6:1~6:15)

6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。
6:2 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。
6:3 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、
6:4 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。
6:5 この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、
6:6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。

6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。
6:9 すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、
6:10 彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。
6:11 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
6:12 その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。
6:13 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。
6:14 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。
6:15 議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。

違和感の正体

ステパノって、何をしているんだ?! ということです。

6:3~6:4で、食事などの世話をするので、祈祷や布教を免除されていますよね? なのに、6:8で布教を続けていた、と表現されています。

  《自分たちで決めたことすらできないの?》

ここに違和感を覚えました。

矛盾がないとする場合、どう説明する?

可能性は2つあるように思いました。

(1)前段(6:1~6:6)はイエス存命中の話、後半(6:8~6:15)はイエス昇天後の話として理解する。
 → ただし、冒頭の「このころ」が、イエスの昇天後とされていることは、作者(ルカ)の人為的操作とみなすことになります。

(2)ステファノが、単独で、布教をこっそり続けていた。(食卓の仕事などは、他のメンバーにやってもらい、自分の負担はこっそり軽くしていた。)
 → ただし、ステファノの人間性を疑うことにつながりかねません。


個人的には、可能性(1)の解釈が無難とは思いました。ただ、それだと、同じような人為的操作が、聖書の中には結構あるのではないか?という疑念が湧いてきます。

(プロテスタントの牧師の息子である)ニーチェが、繰り返し、イエスの教え(福音)と、キリスト教の教えは別物だと主張したのは、こういうところなのかなぁ、と思えてきました。


ブルース・バートンの『誰も知らない男』も、その観点で読み直したら面白いかも知れない。そんな風に思いました。

この点は、いづれ、またnoteでまとめられたらいいな、と思います。


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