見出し画像

なぜ死にたいと言ってはいけないのか。

なぜ死にたいと言ってはいけないのか。

 死にたいから死にたいって言うのに、死にたいって言うと「そんなことを言ってはいけない。」「命を大切にしろ」「今病気で戦ってる人の前でも同じことが言えるのか」「罰当たり」などと言われ、否定される。だから「死にたい」と思っても口に出してはいけない。そう思って生きてきた。だけど、どうしてだろう。私が死にたいと思った時に死にたいと口に出すのはどうしていけないことなのだろう。

昔から漠然と考えていたこの問題に昨日一つの答えが出た。

「死にたい」と言ってはいけない理由。
それは「そんなこと言われても困る」からだ。

 「死にたい」と言われても「じゃあ死ねば」とは言えない。
本当はその人が死のうが生きようがどっちでもいいと思っていても、普通の人は「死にたいなら死ねば」とは言えないのだ。

 「死にたい」と口に出して言う人は、本当に死んだりはしない。本当に死にたい人は誰にも言わない。だって止められたら面倒だから。

 私の母親の話。当時はそんな言葉はなかったけれど彼女は立派なメンヘラだった。
 ある日、私のバイト先に電話をかけてきた。携帯電話ではなくバイト先の固定電話だ。私は高校生だった。実家からは数年前に出ている。
「キシリさん、お母さんから」
「え?・・・はい、ありがとうございます。」
「もしもし」
「キシリ〜お母さんもう死ぬわ〜」
「は?なに言ってるの。今仕事中だから切るね。」
 「あっそ、さよなら」って言えたら良かった。そしたら絶望して死んでくれたかもしれない。いやそんなことはないか。逆ギレしてバイト先まで乗り込んでくるのが関の山だ。あの人が死ぬわけない。死ぬ死ぬって言って「お母さん死なないで」って言って欲しいだけだ。昔からそうだった。あー面倒くさい。早く死ねばいいのに。

 一方私は昔から漠然と死にたいという感情を持って生きている。初めて死にたいという感情を認識したのは小学生の時だった。それからずっと。大学時代の友人が「人生で一度も死にたいと思ったことがない」と言った時はひっくり返るかと思うくらいびっくりした。だって誰しも一度は死にたいと思ったことがあると思っていたから。彼女には「幸せなお家で育ったんだね。」と言って終わった。

 漠然と死にたいっていう気持ちをもっと分かりやすく表現すると、「機会があったら死にたい」っていう言葉が一番しっくりくる。自殺するほどではない。だけど突然余命数ヶ月の病気になるとか、家に隕石が落ちるとか、重病人以外にも尊厳死が認められて死にたい人が死ねる社会になる、とかそういう感じ。この「機会があったら死にたい」って思っている人は意外と多いんじゃないかって思う。

 きっかけは三浦春馬くんのニュースだったけど、自殺についてこれまでより深く、より客観的に考える機会になった。友人と議論も交わした。そこで出た一つの答えが、上にも書いた「死にたいって言われても困る」だ。だから困らせたい人以外には「死にたい」って言わないようにしよう。もし誰かに「死にたい」って言われたら勇気を持って「あなたがそうしたいならそうするのが幸せだよね、だってあなたの人生だもんね。」って言ってあげよう。

今の私にはこれが最善の答えだ。

おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?