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芸術の概念:文脈、展示方法、商品化

今回は、ハイデガーの「芸術作品の根源」におけるヘーゲル芸術論の批判を手がかりにし、シンガポールの美術館と商業地帯の写真を例として、アートの文脈、展示方法、商品の問題について書きます。

西洋思想における代表的な芸術論に、ヘーゲルのものがあります。いわく、「よい芸術作品は、それ自体で独立した美しさを持っている」のだそうです。ざっくり言えば、作品がアーティストや観客から切断されていても、それ自体が表現する美を持っているということです。もちろん、ヘーゲルは西洋の美術館で展示される絵画などを念頭に置いています。

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写真1 「独立した芸術」としてのゴッホの絵画(オランダ国立美術館)

しかし、20世紀に東洋(特に日本)の若い思想家たちと付き合いのあったハイデガーはヘーゲルの芸術論に噛み付いています。曰く「芸術とは、世界の開展だ!」つまり、なんらかの世界観を表明・創造し、その世界を表現する場(あるいは環境)を作ることこそ芸術の根源だと言うのです。彼はおそらく日本の茶の文化(それと茶碗の価値)、和辻哲郎や「いきの構造」で有名な九鬼周造との会話などを念頭においていたはずです。

例えば、日本の骨董品としての茶碗の価値は、アーティストから独立しているわけではありません。日本人は、茶碗自体の独立した美しさよりも、「誰が作ったか」、「どのようなコレクターが代々保管してきたか」を重要な価値の基準とします。作品理解において、アーティストが作り出そうとした美学や「どのように使われたか」が重要だからです。この場合、茶碗は「独立した」価値を持っているとは必ずしも考えられておらず、ある茶の「世界の開展」として理解した方がしっくりくるのです。

ときに、シンガポールに観光の観光地のひとつがアラブストリート。たくさんのアジア製の製品が商品として取引される商業地帯です。一見芸術とは関係なさそうです。

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写真2 あるアラブストリートの商店の棚。ガネーシャ像や仏像が宝石などと共に陳列されている。

そして、アジアの文明や美術に関心がある人が訪れるのがアジア文明博物館。アジアの芸術品を展示し、ひとつ共有の歴史としてイメージしようとするシンガポールらしい施設です。まさに、ヘーゲルの「独立した芸術」を体現するはずの場所です。

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写真3 アジア文明博物館入り口

これらふたつの場所は、商業地帯vs神性なアジア芸術の神殿という全く異なる空間に属している、と思われるのではないでしょうか。でも、実際にはアラブストリートの商品と博物館の展示物は、ある場面では交換可能な芸術作品なのです。

博物館の方から、ハイデガーとヘーゲルの間で考えていきます。

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写真2 ガムラン

これは楽器の展示です。もちろん、楽器は音を用いる芸術のために作られるものです。そして、「触れるな」のマークがありますが、人が触らない限り、楽器は音を出しません。写真は、インドネシアのガムランの演奏に使われる楽器の一つです。ガムランのみの演奏が行われることもありますが、ジャワやバリの人たちに最も親しまれている形の芸術としては、夜な夜な人々が集まって、たばこを吸ったりお酒を飲んだり、食べ物をつまんだりしつつ、ガムランをBGMとした影絵劇が行われている場にいることです。ハイデガーの言う「世界の開展」というのは、このワヤンの影絵劇に参加・出席してみないと体験できず、博物館の展示を見るだけでは不十分なのです。つまり、アーティストと観客が演奏に参加して初めて成立する芸術です。

博物館の「触れるな」マークは、ヘーゲル的な意味での独立・完成した芸術としての展示を守るためのものです。ヘーゲル的の美術論では、芸術作品はアーティストや観客から切断されていなければいけません。ですが、博物館の展示に置いては、楽器の物質性だけを展示することにより、ガムランやインドネシアの影絵劇としての文脈を消し去ってしまっているのです。つまり、ハイデガーの言う所の、「世界の開展」の芸術としては、その世界観と文脈から切り離されて展示されているのです。

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写真4 ワヤンの影絵人形

そして、このように影絵で用いる人形も「独立して」展示されています。ですが、影絵劇とその環境から切り離された人形は、その世界観と魅力を完全には表現できていません。躍動感・音・においといったワヤンの雰囲気を失っているからです。ハイデガー的な意味では、芸術作品として損なわれているのです。

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写真5 仏像

こちらは首だけの仏像です。こちらも「独立した」芸術としても、「世界の開展」としても不完全なもののはずです。おそらく元は首から下もあったでしょうし、どこかのお寺に座っておられるのが元々の文脈でしょう。

アユタヤやアンコールワットなどの東南アジアの遺跡に行くと首のない仏像が相当数あります。もしかすると、こういった場所のひとつからちょんぎられたものなのかもしれません。博物館の展示品も、ある意味では東南アジアの遺跡から略奪した品を買い取る資金の権力を誇示しているとも言えます。

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写真6 東南アジアの剣 (クリスとボロ)

あまりたくさん例があると長くなってしまうため、最後にします。この写真は、東南アジアの剣のコレクションのひとつです。ただ、実は右側のミンダナオ産の2本はもっぱら戦闘用の刀と考えられるのに対して、左側の2本はある種の家宝・妖刀として作られたものです。ローカルな文脈では芸術としての価値が全く異なる2つのものが、展示に置いては「剣」として一緒にされてしまったわけです。文化的な意味が消し去られています。

さて、アラブストリートと博物館の比較です。

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写真7 博物館での香水瓶などの展示。


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写真8 アラブストリートでの香水瓶の棚。

商業地帯の商品と博物館の展示物は、交換可能なものがあります。例えば、仏像は、「神性な」モノでもありますが、商品化もされています。また香水瓶はおそらく元々商品化されることを前提にした生産物です。そして、アーティストが誰かに関係のない「独立した」美しさを持っています。しかし、東南アジアの文脈では、香水瓶は、影絵や織物ほど高位の芸術と見なされてはいません。

これらの香水瓶、頭だけの仏像、ガムランが博物館の「芸術品」として同じ運命をたどるということは、ヘーゲルとハイデガーの「芸術」概念の非十全性、あるいはアジアの芸術の展示のされ方の問題点を示しているのではないかと考えられます。あるいは、博物館・美術館という場所が、アジアの芸術を展示するには、あまり適さない場所とも言えるのです。

博物館の頭のない仏像がどちらの芸術論においても非芸術的と言えるのに対して、ハイデガー/ヘーゲルの考え方をアラブストリートの商品陳列に適応すると、これこそが芸術だと言えてしまいます。それは商人資本主義の世界観を開展し、商品は独立した美を持っているからです(笑)しかし、アーティストの美学や文脈までを含んだアジア芸術の価値や意味を適切に表現するのには、商店街もまた適した場所とは言えないのではないでしょうか。

私はこんなことを考えながらアジアの商店街や美術館をうろうろしたりしているのですが、みなさん、アジアの芸術はどこでどう展示されるのが最もアジアの多様で独特な世界(たち)を開展するのに適した場所だと考えられるでしょうか。あるいは、そういった場所を作り出すにはどうしたらいいでしょうか。

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