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戦争と紛争に関するMnemozineインタビュー(3)東南アジア、国連、NUSの大学院

その(1)近況と冷戦研究. https://note.com/kishotsuchiya/n/n6c78ce599268 

その(2)ミンダナオと東ティモールについて. https://note.com/kishotsuchiya/n/n4e35f6527cc1 

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記者:東南アジアにはどのようにして関心を持ったんですか。

土屋:私にとって初めての東南アジアは、3,4歳の時にバリにいたときです。バリの人たちが、心優しくて暖かかったこと、景色が美しかったことをよく覚えています。その後の東京での学校生活が忙しくてストレスフルなものだったこともあり、インドネシアを素敵な場所として記憶してきました。
東南アジアに再度帰ってきたのは、大学生のときです。元東ティモール国連事務総長特別代表の長谷川祐弘先生に弟子入りして、彼のゼミの研修旅行でバリ、ジャカルタ、ジョグジャカルタ、そして東ティモールに行きました。それで東南アジアへの関心を再確認しました。

東ティモールへの研修旅行はとてもエキサイティングでした。2006年の紛争のすぐ後で、当時はまだIDPキャンプがありました。そして、シャナナ・グスマン、ジョゼ・ラモス・ホルタ、フェルナンド・ラサマ・アラウジョなどのティモールの抵抗運動のヒーローたちに会うこともできました。そして、ラサマさんと話す機会があった時に、彼が1991年にバリで逮捕されていたということを知りました。それはちょうど私がバリにいた頃のことだったので、一見平和なインドネシアで起きていた抵抗運動について知らなかったことが恥ずかしくなりました。

記者:国連での勤務はどういう感じだったんですか。

土屋:研修旅行の後、長谷川先生に頼んで東ティモールの職場に口を聞いてくれないかと言ったんです。そうしたら国連の選挙新事務所で最初の3ヶ月はインターン、その後の9ヶ月間、(特殊支出の)月500ドルで働くことになったんです。国連の“国際職員”の給料はボランティアでも2000ドルで、私の給料はティモール人の“ナショナルスタッフ”と同じくらいだったので、ティモール人の職員たちはとても仲良くしてくれました。普通、「国際職員」と「ナショナルスタッフ」は一緒にお昼を食べたりしません。給料にあまりに大きな差があるので、同じレストランに行けませんし、ルサンチマンみたいなのもあります。私は「ナショナルスタッフ」扱いだったのでお昼はティモール人職員たちとです。そこでテトゥン語やポルトガル語を教えてもらいました。

私が主に関わったのは2009年の地方選挙です。当時争点になっていたのは、地方選挙を政治化するかどうか、つまり政党の参入を許可するかどうかです。東ティモールは一応独立したことになっていましたが、選挙法案の立案には国連のリーガルアドバイザーたちが関わっていました。紛争予防を優先していた国連側の意見としては「政治化しない方が国家建設が安定するだろう」というもので、当時のグスマン政権も同意して、結局その方向で決まりました。実際、政治化していたら、野党だったフレテリンが多くの地区で勝っていたと思います。強い草の根レベルの組織を持っていたのがこの政党だけだったからです。

ちなみに、この地方選挙法は村長の他に慣習法の責任者として「リア・ナイン」を任命するという内容を含んでいるのですが、文化人類学を勉強した今となっては村の伝統の守護者を選挙で決めるというのは不思議な感じがします。

国連のリーガルアドバイザーは、国政への比例代表制の導入、政党の拘束リスト法などの選挙法の立案にも関わっているため、独立後の東ティモールの政治文化への国連の影響はとても大きいです。

<↑東ティモール国連選挙支援チームの評価レポート>

当時の私は、大学を卒業したら国連に戻る準備をするつもりでいました。ですが、国連の選挙チームの上司で、歴史家でもあるアンドレス・デル・カスティーリョに「国連で出世したいなら修士号を取るように」と言われました。実は、ティモールの歴史については、国連で勤務しなければ得られなかった情報というのもありますが、アンドレスさんから学んだことが多いです。彼は10ヶ国語くらいを話す行政官兼学者なのですが、当時出ていた英語圏の文献を遥かに凌駕するティモールに関する知識と経験を持っていました。

記者:NUSでの研究を通して東南アジアの理解が変わったということはありましたか。

土屋:NUSに来た後は毎日認識が新しくされる日々でした。NUSに入学したのは国連での勤務が終わって法政大を卒業した後です。アンドレスさんと長谷川先生の推薦状をもらって、東南アジア研究科の修士課程に入りました。
そこで2012年にマイトリ・アウン・トゥイン先生の授業を取りました。彼は、ミャンマーのサヤ・サンの反乱に関するThe Return of the Galon Kingという本の中で、この反乱に関するこれまでの研究を非常に丁寧な史料批判を通して脱構築しています。「私達はいかにして知っていると思っていることを知っているのか」というのがマイトリ先生の口癖です。

<↑マイトリ先生の本>

私はこの本に感化されて、東ティモール研究史に対して同じような史料批判をしてみたいと思い、彼の下で独自研究を行いました。それが博士論文のプロポーザルの下地になったものです。それでマイトリ先生に引き続き、博士課程での指導教官になってくれるように頼みました。私の「東南アジア理解」というものがあるとすれば、マイトリ先生の訓練に負う所が多いと思います。彼の指導は「ティモールとインドネシアと東南アジアについて書かれてることは全部読め」と言う感じでした。読んだ上で、「私達はどのように知っていることを知っているのか」と問い直すわけです。

先に言うのを忘れてましたが、私の研究職への関心というのは、レイナルド・イレート教授に植え付けられたものです。彼の作品を読み、彼の授業で様々な歴史家について会話をするうちに、歴史を書くほうが国連で官僚をやるより面白そうだと思うようになったんです。マイトリ先生は「プロフェッショナルに」と口酸っぱく指導してくれましたが、イレート先生は「エキサイティングなことをやれ」と鼓舞してくれました。

<↑イレート先生の本>

私自身の経験と、NUSでの歴史学と東南アジア研究の訓練、そして文献調査とフィールドワークというのが私の認識を形作っている主なソースです。研究者としては若い方ですから、今まさに自分なりの東南アジア理解を作ろうとしているといったところでしょうか。

記者:そもそもなんですが、どういった経緯で歴史、特にアジア史を研究しようと考えたんですか。

土屋:私は東京のプロテスタントの家庭に生まれたのですが、牧師からはいつも「原典にもどれ。言われていることが聖書に本当に書いてあるかチェックしろ」と指導されていました。それで生まれてはじめて出会った歴史書というのは聖書で、だいたいどこに何が書いてあるか覚えてるくらい何度も通読しました。気づいたときには原典を引用して論争するという習慣がついていました。

両親は、聖書の他にソクラテス・デカルト・ニーチェ・スピノザ等の西洋哲学を紹介してくれました。多分、普通の日本の青少年たちよりは、西洋的に育てられたと思います。でも、正直学校の歴史の授業は嫌いでした。

東南アジアへの関心は、バリでの少年時代、ティモールでの仕事、シンガポールでの教育で育ったものです。ついでに、ミンダナオ人の女性と結婚したということもあるかもしれません。妻にとってもそうだと思いますが、私にとって妻はよくわからない人でした。日本人プロテスタントの学者とミンダナオ人カトリックのミュージシャンです。私にとって東南アジア研究というのは、妻やその家族、友人や同僚たちがどうやってこの世界に生まれてきたのかを理解しようとすることでもあるのかもしれません。

歴史学という学問の面白さがわかったのは、益田先生、マイトリ先生、イレート先生との出会いが大きいです。彼らと議論することで、歴史家の大事な仕事というのは(私がかつてイメージしていたような)「過去の番人」というよりは、何が問題なのか自分で決めて、その問題の文脈が他の人たちにもわかるようにするということだと考えるようになりました。


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