見出し画像

【読書】アンダーグラウンド/村上春樹

本書は、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件の被害者や関係者に、村上春樹さんが行ったインタビューを載せたものである。

この事件について、自分にとってはどこか遠い出来事という印象で、狂信的な集団による一つの凄惨な事実として認識しているのみだった。生まれて間もない頃に起きた事件であり、身近に被害を受けた人もいなかったため、ニュースで時おり話題になるほかに接点が無かった。

だが本書を読み進めるうちに、それまで持っていた断片的な、わずかばかりの理解があっさり崩されていくのを感じた。

インタビューの途中、事件の記憶が蘇ってはインタビュイーの心をかき乱したであろうこと、その言葉は時に声を詰まらせながら語られたであろうことが、文章からうかがえた。

何度も涙で視界がくもり、その度に読書を中断せざるを得なかった。


◇◆

地下鉄サリン事件による一連の被害は、ほとんどの場合オウム真理教という特異性の文脈の中で語られる。
だが、最初の被害は、正体不明の息苦しさと闇によってもたらされたものであり、それは加害者側の属性によって何ら説明しうるものではない。

事件の瞬間の底知れぬ恐怖と、続いてやってくる、もう以前と同じように生活できないかもしれないという絶え間ない不安。
残された方にとっては、最愛の家族を奪われたこと、もうその人と会うことも話すこともできないこと、できることなら代わってやりたいとどれほど願っても、それは絶対に叶わないこと・・・。

そうした身を切られるような痛みは、マスメディアではほとんど語られない。

そのことに改めて気づかされ、衝撃とともに、自分がいかに報道から得るほんの一部の情報だけを頼りにイメージを作り上げ、現実の被害者の苦しみを想像の外へ追いやっていたかを痛感した。

この事件を、オウム真理教団の残忍さの具体化のひとつに位置付けて捉えることは、多少なりとも理解したような気分にさせてはくれるが、それ以上の何ものでもない。
むしろそうした捉え方を押し進めれば押し進めるほど、本来決してひと括りにできないはずの一人一人の生活や思いが外側から線引きされ、散り散りになった被害者の痛みが置き去りになっていく。
「ゆがんだ宗教性」という枠内でのみ語られ、事件自体がある種のゴシップ的色彩を帯びることによって、被害者の感情が踏みにじられ、二重三重に苦しめられていく。

本書の中でも、そうしたマスメディアの報道に対する違和感や憤り、失望がひしひしと感じられた。

それでも、本書のインタビュイーは、執筆に対して一定の理解を示し、必ずしも進んでとは言わないまでも最終的には自らの意思で協力してくれた方々である。

そうでない方が圧倒的に多く、考えることすら辛い、あるいはマスコミへの不信感から取材そのものに強い抵抗のある方々の、語られない苦しみが数多くあったことは想像に難くない。

解決を急ぐことは、解決され得ない(解決というものが何を意味するのかすらわからない)ものを黙殺する危険性をはらんでいることに、改めて思い至った。

その意味で、本書を読むにあたって何かを「理解しよう」という姿勢で臨むこと自体、間違っているのかもしれない。

しかし、それでも本書を通して得た教訓あるいは学びというものがあるとすれば、それは「集約できない個々の体験や思いに注意深く目を凝らす」という姿勢である。

仮にそれが不安定なものであっても、「わかったつもり」になって捨象してはいけない。それはとりもなおさず情報の受け手にとっての心地よさのための安易な理解の形であり、本当の意味で想像することとは全く別物であるからだ。

◇◆

noteに読書記録をつける際、私はその感想を伝えるためにしばしば作中の文章を一部引用する。

だが本書に限っては、インタビュイーのお話の内容を抜粋することはできなかった。全体を読んで初めて過不足なく表明されるインタビュイーの語りを、不十分な形で伝えてしまいかねないことを恐れたからだ。

本書の執筆にあたって、村上春樹さん自身も、文章を書いて確認し、修正しては再確認する作業を繰り返してきたと述べている。
その過程では、一言では誤解を与えそうな表現には補足を加え、文と文の順序にも気を配りながら、できる限りインタビュイーの意図が正確に言語化されるよう、細心の配慮をしてこられたと思う。
だから、その一部だけを切り取ることは本書のインタビュー内容については差し控えた。

その代わりに、村上春樹さんの言葉を最後に一部、引用したい。
本書を執筆する動機の一つにもなった思いが、以下のように綴られている。

 「どうして?」という疑問は私の頭から去らなかった。それはとても大きなクエスチョンマークだった。
 不運にもサリン事件に遭遇した純粋な「被害者」が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、何故そのような酷い「二次災害」まで(それは言い換えれば、私たちのまわりのどこにでもある平常な社会が生み出す暴力だ)受けなくてはならないのか?まわりの誰にもそれを止めることはできなかったのか?



mie




この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件