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【読書】1Q84/村上春樹

ふとした瞬間に、現実と非現実のスイッチが切り替わる。
二つの世界が交差するポイントはありふれた風景の中に潜んでいて、気がついた時には跨いでいる。

登場人物たちはそれぞれに純粋な動機を持って進んでいるのに、足を踏み入れた先には、混沌とした景色が待ち受けている。
事実が一つ、また一つと明かされるたびに、かえって自分の視座への確信が揺らいでいく。

読み終えてもなお、問いを投げかけるような不思議な余韻が残る。

『1Q84』

本書は、男女の運命的な邂逅という壮大な流れとともに、「宗教」というもう一つの要素が物語の底流をなしている。

以前、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューがまとめられた村上春樹さんの著書『アンダーグラウンド』を読んだ。
その時に感じた胸が張り裂けそうな痛みや苦しさと、『1Q84』で引き出された感情とはずいぶん異なるものだった。
だが、最後に行き着く問題意識には通底するものがあった。

そこには、自分がこれまで考えることのなかった(あるいは考えずに済んできた)テーマが含まれているように感じられた。

そこで、今回は「宗教」に焦点を絞って、この本から受け取ったものを綴ってみたい。

※『アンダーグラウンド』の読書記録はこちらです。

◇◆

人はだれしも、内面に善意と悪意の両方を抱えている。
それは人間が「善悪」あるいは「悪意」と決める前から既にそこに存在し、見方によってどちらにもなり得る流動的で相対的なものである。

だが、物事が善と悪に二分され、固定され、善だけが追求されることによって、本来相対的であるはずのものが、片側だけの物差しで推し量られることになる。
それは社会に歪みを生じさせ、悪とされる物事に対する犠牲や排除を生み出す。

作中に登場するリトル・ピープルは、本来(社会的な価値基準が生まれる前は)善意でもあり悪意でもあったのに、社会の物差しによる定義を通じて「悪」の側へ分類された大衆の心と捉えることができる。

その意味でリトル・ピープルは、古来から人間が向き合ってきたものであり元々は有害ではないはずなのに、実社会とは別の「宗教」という受け皿を必要としているのではなかろうか。

そして、全く同じ図式で社会的な価値基準からはじき出された人々。
彼らにとってもまた、宗教は受け皿として機能する。
宗教はリトル・ピープルの声を聴くことを通して、そうした人々の「声なき声」に耳を傾ける役割を担うからだ。

だが、宗教の側においても、片側の物差しのジレンマを捨てきれないところに、その致命的な危険性があるように思う。

宗教が、(あくまで物語の中では)社会における「悪」の受け皿である以上、自ずから社会とは反対の物差しを持ち出さざるを得ない。

社会的な価値基準が強力で排他的なものであればあるほど、作中の言葉を借りれば「合わせ鏡」のように、受け皿の側からの逆の価値基準も極端なものになる。
その結果、宗教はそこに身を寄せる人々にとってますます絶対的なものになっていく。
教義があたかも自分自身の価値観そのものであるかのように、彼らは宗教と自己とを同化させていく。

◇◆

天吾の父親や青豆の両親も、やはり宗教的なものに自己を同化させていた人の一人だったように思える。

天吾の父親にとってNHKの集金の仕事は一種のマントラであり、青豆の両親にとって戒律は最優先事項だった。

そして、当時子供だった二人が20年後に降り立った世界。
そこは「論理が意味をなさない世界」であり、別の言い方をすれば、奇しくも宗教が社会を脅かすまでに変質した世界であった。

天吾は父親を看取ることを通じて、「NHKの集金活動」というマントラに振り回された過去と穏やかに決別する。

青豆もまた、宗教団体「さきがけ」のリーダーを倒すという使命を果たすとともに、マダムのもとを離れ、やはりある種の信仰に近い「正しさ」から解放される。

彼らはそれぞれに、自身を縛る社会的(あるいは反社会的)結びつきを解き、愛する人と手を取り合いその世界から脱出していく。

その意味で、彼らが巡り合うために越えなければならない試練とは、宗教の呪縛を解くことを通じて、絶対視された単一の「正しさ」による結びつきを終わらせ、私的・個別的で情緒的な結びつきを取り戻すための試練でもあったように思えてならない。

◇◆

ところで、この物語は最後に一つ、問いかけを残しているように思う。

天吾と青豆が再会を信じ、試練をくぐり抜ける傍らで、犠牲を余儀なくされた人物がいる。

牛河だ。
彼は宿命的に青豆の命を脅かす存在となり、結果として人知れず命を落とす。
青豆と天吾の再会(それは言い方を変えれば読者にとっての「正しいラスト」だ)という観点に立てば、牛河は確かに悪なる人物だったのかもしれない。
だが彼もまた複雑な過去を背負い、社会と宗教との間で揺れ動きながら自身の居場所を模索し、時に美しいふかえりの後ろ姿に心震わせる、善悪併せ持つ一人の人間なのだ。
一体どこに、彼の死を正当化できる理由が有り得るだろう?

自分の信じる価値を貫くことが、時として誰かの犠牲や排除を生んでしまう矛盾からは、「さきがけ」も青豆たちも、そして読者である私自身さえも、逃れられないのかもしれない。

彼らや私たちを隔てる境界は曖昧で、正しさというのはどこまでも主観的なものなのだ。
正しさの物差しは、他ならぬ弱さや脆さを内包した人間が作り出すものだから。


mie



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