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理解を超えるのを認めることから始まる

 アドラーは「共感」や「同一視」を説明するため窓を拭く人が足を踏み外しそうになったら、それを見ている自分も同じように感じるだろうといっている。また、多くの聴衆を前にして演説している人が、話の途中で突然先に進めなくなって、つかえてしまった時、それを聴いている人は、自分がこのような恥ずかしい目にあったかのように感じるだろうともいっている(『教育困難な子どもたち』)。
 相手を正しく理解するためには、自分を相手の立場に置き自分の見方を傍に置いて相手と一体化しなければならない。言葉では簡単だが、自分を相手の立場に置くというのは簡単ではない。大抵は、自分だったらこうするだろう、こう考えるだろうと自分の立場から相手を見てしまうからである。
 山本七平が、冬の寒い夜にかわいそうと思って、ひよこに湯を飲ませて殺してしまった人の話を引いている(『空気の研究』)。山本は、この例を「感情移入」として説明し、それを「対象者と自己との、また第三者との区別がなくなってしまった状態」と説明している。
 これはアドラーのいう共感や同一視とは違う。山本があげる例では、人を理解するために相手の立場に身を置くのというのではなく、自分の見方を相手に重ねてしまっている。つまり、自分がこのように感じるのだから、相手もきっと同じように感じているに違いないと思うのである。そのように思い込む人は、自分の感じ方、考え方以外のものを認めようとしない。そもそもそんなものがあるとは思わない。
 親子であっても理解できないのは当然だ。親だから子どものことは誰よりも理解しているといわれたら子どもは困惑するだろう。親子に限らず、人は必ず自分の理解を超える。他者を理解するというのは、他者が自分の理解を超えていて、自分には明々白々な知を超えていることを知ることであるともできる。少なくとも、このことを認めることが、他者を知ることの出発点である。また、そのことが人をありのままに見るということである。
 ところが、理解できないことを認めたくない人はいる。とりわけ、親が子どもが自分の理解を超えた存在であることを認めようとしない。
 子どもが自分を好きでないことなどありえない。この子は私を本当は好きなのだ。そう思う親にとって子どもは親から分離した存在ではなく、親の「観念」でしかないという意味で、この母親の世界には「他者」が存在しない。
 レインは子どもから好きではないといわれて母親が平手で子どもを打つという事例をあげているが(Self and Others)、このような反抗的な態度を取るという形であっても、子どもが親にとって他者になる方が望ましい。他者の他者として生きること、他者にとって意味のある存在になること、他者に影響を与えうる存在になることで、子どもは「私」を確立できるのである。
子どもが何らかの形で親の意に沿わない言動をし始めた時、子どもを他者と認めることができない親は、子どもを自分の観念のうちで生かそうとするだろう。
 しかし、親がどう思おうと、子どもはもはや親のもとにとどまることはない。子どもが他者、親の他者として生き始めることは、子どもにとっても望ましいことであり、親にとっても親が子どもを他者として認めるという意味で、子どもから自立するのであれば、親の「私」が確立されるという意味で望ましいことである。

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