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夢敗れても、惨めなんかじゃない

 「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ」

 ぼくが、空に憧れたきっかけの音。
 1つ目の夢が生まれた音。
 本当はこれがスペースシャトルの音だったら良いのだけれど、そうではない。ボーイングの飛行機でもエアバスの飛行機でもない。

 中国人民解放空軍の戦闘機のジェットエンジンの音。

 ロシアと北朝鮮の国境に近い中国の片田舎に生まれたぼくは、幼い頃よく祖父に連れられて空港に遊びに行った。空港に入ることはなく、敷地のすぐそばから頻繁に離着陸する戦闘機を眺めていた。

 資本主義国の人には意外なことかもしれないけれど、共産主義だからと言って仲良し子良しなわけではなくて、ロシアも北朝鮮も中国にとっての脅威になりうる。
 だから、ぼくの故郷は国防の最前線だった。朝鮮半島の情勢が不安定になるたびに、祖父母の家の前の道路を陸軍の戦車大隊が国境地帯に向けて行軍する。

 男の子というものはどうしてその大多数が幼少期に飛行機に魅了されるのか分からないけれど、ぼくもその例に漏れず、一番古い記憶の中ではもう飛行機に魅せられていた。憧れはMiGや殲やスホーイだった。(えらい物騒な幼児だなと今では思う)
 そしてぼくは将来人民解放空軍のパイロットになると心から信じていたが、その後、家庭問題や公害から逃れる為にぼくは日本に移住した。確かにぼくは親戚内で白い目で見られていて辛かったのはあるし、劣悪な公害で2ヶ月に一度のペースで入院していた。それでも、日本には行きたくなかった。ぼくが空軍のパイロットになりたかったのは、憎き日本鬼子をのさばらせないためだったから。しかし自分ではどうしようもなく、母親に強制的に日本に連れてこられた。正直、勘弁してよと思っていた。
 敵地に送り込まれる悲しい気持ちで関西国際空港に到着したぼくは衝撃を受けた。ゴミひとつない空港はこまめに清掃された床が天井を映していて、大声で喚きながら電話する人もいない。床のタイルは一箇所も割れた場所がない。トイレは寝転がれるほど綺麗に感じられた。空気も綺麗。挙げ句の果てには空港自体が人工の島らしい。
 少数民族が押し込められている中国の田舎町から出たことすらなかったぼくには驚きの連続だった。驚き桃の木山椒の木。子供の理解力を舐めてはいけない。日本に到着して数時間もしないうちに母国の敗北を知った。
 この国にはちょび髭で丸メガネをかけて部下を「バカヤロー」と理不尽に殴打し、毎回最後には反日戦線の反撃をくらって死ぬような間抜けな関東軍の将校はいなかった。倒すべき敵を失ったぼくの空軍パイロットという夢は関西空港に胴体着陸してそのまま大破、炎上してしまった。

 しかし、それでもぼくは当時5歳だったぼくの心はその頃から好奇心に溢れていて、次の夢はすぐに見つかった。空軍のパイロットの次に見つけた夢は「トラックの運転手」だった。
 幼稚園でのいじめを一人の親切な女の子の優しさに支えられながら乗り越えて、日本という国に馴染み始めていたぼくは働く車にどハマりした。物を運んだり、建物を造ったり、急病人を運んだり、皆を助けるヒーロー集団にしか見えなかった。
 中でもトラックは群を抜いてカッコ良かった。上手く言葉には出来ないけど、あのなんとも言えないメカメカしさは心に刺さるものがあった。ついには卒園式で「ゆめはとらっくのうんてんしゅです」なんて宣言までした。数ヶ月前まで「おはようございます」くらいしか言えなかったのに。
 しかし、2つ目の夢もその寿命は長くなかった。小学校に入るとまたいじめが待っていた。それも成績と腕力で全てねじ伏せたけど、ある日夢をバカにされた。小学校の将来の夢ヒットチャートの上位層はスポーツ選手やケーキ屋さんお花屋さんなんかが並んでいて、それに対して、ぼくの夢はトラックの運転手。ダサイにも程がある。それをお笑いの総本山の幼い大阪府民達が見逃すわけもなく、めちゃくちゃいじられた。ぼくの中では野球選手なんかよりトラックの運転手の方が遥かに恰好良かった。

 どう考えても社会からどっちかを消せと言われたら満場一致で野球を消すやろ?

 でもそこは多勢に無勢。ぼくは夢を揶揄われたのが悔しくて大泣きした。親にも見られないように、帰り道の知らないマンションの裏で大泣きした。とても悔しかった。やっぱり夢との別れは失恋に似ている。トラックの運転手の夢と別れて大泣きしたぼくは、先日恋人と別れて大泣きしたのでひょっとすると中身的には何も成長していないのかもしれない…
 そこからしばらく夢に空白の時間が出来た。ガキンチョのくせして恋に疲れたOLのようにショックから立ち直れず次の夢に行く勇気が出なかった。その代わりに、その頃には日本語の語彙がついてきて不自由なく日本語の本を読めるようになったので連日のように市の図書館に入り浸って本を読み漁った。そしてそこで3つ目の夢が出来た。
 「市立図書館の児童書を全て読破すること」
 その頃には大体日本人の特性を把握しつつあった。本当かよと言われるかもしれないが、忘れないで欲しいのはぼくは移住者だということ。日本という社会に馴染んで生きていくために無意識な生存本能で周りを細かく観察していた。その結果、日本人は中国人以上に体面を気にすることと、勉強関連で結果を出せば問答無用で相手を精神的にねじ伏せられるということだった。また、読書が大好きだったのでとにかく本を読みまくることを夢に決めた。
 我ながらずる賢いと思う。遠すぎて大破した1つ目の夢、市場調査を怠ってお蔵入りとなった2つ目の夢、その反省を生かして奨励されてしかるべき『読書』という真面目の聖域の中に見出した3つ目の夢。

 けれど、それも短命だった。美人薄命とは言うが、この夢はただただ浅はかで醜かった。周りの目線を重視して宣言した夢だったせいで予想がとても甘かった。挑戦を始めて気づいたのだが…つまらない児童書が山のようにある。最初は宣言した手前何冊か挑戦したが数ページもしないうちに背中が痒くなった。こうして3つ目の夢は宣言したものの、誰にも進捗報告することなく自然消滅した。
 そして、めぼしい児童書を大体読んだぼくは、満を持して児童書のエリアを飛び出して、図書館の通路の反対側の大人の世界の戸を叩いた。あの日何も考えずに好奇心の赴くまま図書館の通路を渡ったことがぼくの人生を大きく変えた。
 ぼくは、いきなり母が好きだった養老孟司さんの本を読むようになった。難しい言葉ばかりでさっぱりだったので国語辞書を相棒に活字の世界を旅した。かいけつゾロリとは比べ物にならない深い世界が紙の中に隠れていてぼくは一気にのめり込んだ。他にもスターウォーズの小説や子供の科学、Newton、そこから偉人の伝記(大人向け)も読むようになった。
 ぼくは活字の魅力に取り込まれていった一方、飛行機との再会も果たした。そして、その後輩であるロケットにも初めましての挨拶をした。関西空港で大破した夢の残骸からブラックボックスを取り出した。骨が軋むほどのジェットエンジンの衝撃と轟音。ロケット。雑誌には探査車が撮った火星の地表の写真。ワクワクが止まらなかった。図書館に入ってすぐ左折していたぼくは右折しかしなくなった。図書館には世界のすべてがある気がした。

 完全に自分だけの世界を拡張する楽しさを知ってしまったぼくは、もう他人のことなんて気にしない。好きなものはたくさんある。どれを夢にしようか。悩んだ結果、ぼくは宇宙を選んだ。普通ならこれがサクセスストーリーの始まりになりそうだが、これは呪いの始まりでもあった。
 宇宙という夢を掲げたぼくにとっては、まず地球の重力からの脱出以前に治安の悪い地元からの脱出が最優先だった。そこで駄々をこねて中高一貫の進学校に進学させてもらった。小学校を卒業する頃には、学年一位で神童扱いされていた。卒業式では「将来は宇宙物理学者になります」と宣言した。幼稚園の頃から本当に何も変わってない。。。
 しかし、進学先ではぼくよりすごい奴がたくさんいた。親の潤沢な資金の投資を受けて効率化された勉強マシーン達は市立図書館上がりのぼくとは全く違う存在だった。
 そんなとんでもない世界で6年揉まれる内にぼくは違和感を持ち始めた。どうやらぼくは数学が得意じゃない。250点満点のテストで15点を取った時は目の前が真っ白になった。困った。理学部なんて数学ができないと話にならない。この時点で夢を掲げて8年。年月の重みがぼくを縛り始める。
「じゃあ宇宙開発にしよう…」
 見苦しい言い訳で工学部に戦略的撤退を行った。この時、夢を掲げて8年目。

 しかし、その撤退先でも失敗する。工学部ですら第一志望大学に落ち、一浪して「こっちの方が宇宙系しっかりしているから」とワンランク下の大学に入学した。そして、入ってすぐ気がついた。ここは自分が来る場所じゃない。この時点で夢を掲げて10年目。もう自分の夢に雁字搦めになっていた。学科の中で、宇宙系のコースに行くには成績が優秀じゃなきゃいけない。でも、ぼくは、大学の授業は何が分からないのかも分からなかった。さらに初めての一人暮らしの開放感に溺れてサークルやバイトに精を出す始末。
 奨学金を増やそうと投資も始めた。事業も立ち上げた。気づけば学部3年、ぼくは脱出しようと就活をして内定をいくつか貰った。夢に別れを告げる準備は整った。それなのに、不運なことに、そのタイミングで偶然高校の先輩から連絡が来て、自分のいる研究室の環境がとても良いから日本で宇宙開発やりたいならうち来いよとラブコールを受けてしまう。そしてその大学の院試になぜか受かってしまう。とうとう大学院にまで来てしまった。。。

 そこまで生きる過程で心に生傷がたくさん増えて正直研究どころではない状態にもなった。この時点で夢を掲げて14年目。もはや自分の子供の頃の夢が恨めしくさえ思えてくる。

今、沢山の人の助けを借りて、なんとか修士号までたどり着いた。
「大学院 中退 休学」
で調べたら、いくらでも検索結果が出てくる世の中で、大学院に似つかわしくない手厚いサポートを受けて、なんとか卒業できた。いや、卒業させていただいた。

 夢を掲げて15年、分かったことは「自分がその夢に向いてなかった」という現実だった。

 今振り返ると、幼い頃の夢というものは、変えるハードルがとても低かった。好きなものを純粋に夢と呼び、挑戦し、飽きたら次の夢を探す。それなのに一体、子供の頃の夢はいつから大それたものになったのだろうか。

「夢に生きることは素晴らしい」
「夢は諦めちゃいけない」
「夢は困難じゃなきゃダメ」
「夢のためならどんな困難でも乗り越えられる」

 いつのまにか、こんなポリコレならぬ夢コレが刷り込まれていた。どうせ子供の頃からの夢を真っ直ぐそのまま叶えた人なんてほんの一握りしかいないはずなのに、一体誰がどの面下げてこんなことを言ってきたのか?

 町中で石を投げて当たった人の、今の姿と子供の頃に思い描いていた姿なんてほぼ100%違うはず。違って良いじゃない。
 別に今の夢が「月一で焼肉食べれるくらいのお金を稼ぐ」ことだって良いはず。それだって、立派な夢だ。次の夢の候補なんていくらでもある。

 子供の頃の夢が破れたって、また新しい夢を見つけてくれば良い。

 コロコロ変わるのが子供の頃の夢でしょう。
 そんな大したことないよ子供の頃の夢なんか。
 夢そのものよりも、子供の頃の心の柔らかい瑞々しさこそが大事だと思う。
 だからぼくは、15年間抱えっぱなしの破れてボロボロになった夢を捨てて次に進む。
 振り向いてもらえることの無かった15年間の片想いを思い返して、心は少し寂しいけれど。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。