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[エッセイ] 赤ワインに氷を入れてもいい季節

 夏といえば、何を思い浮かべるだろうか。
 花火?
 祭り?
 海?
 それとも、ぬるくなったラムネ?

 僕の中では、夏といえば氷入りの赤ワインだ。気が変わったら「夏といえば冷えたわらび餅」とかまた書くかもしれないけれど、今のところは氷入りの赤ワインこそが夏だ。

 大学時代の話になる。当時のアルバイト先から徒歩30秒の至近距離に個人経営の小さなダイニングバーがあった。お酒好きな僕がそのバーに入り浸るのに、特筆すべき努力は何も要らなかった。
 カクテルの味は可も不可もない。けれど、マスターの作る料理はどれも絶品で、総合力では一気に高評価になる。仕事終わりに食堂代わりに通い、ハンバーグやらパスタやら、メニューにないものまであれこれ無茶を言って作ってもらった。
 マスターは人望が厚く、店にはいつも誰かしら常連がいた。足繁く通った僕はすぐに彼らの仲間に入れてもらえて、不慣れな街にようやく居場所が出来た気がした。

 ある日、22時過ぎに仕事を終えた僕は、いつものようにたった30秒だけ歩いてバーに向かった。お店は結構混んでいたが、僕の定位置、カウンターの端の席はなんとか空いていたので、勝手に腰掛けた。

「こんばんは」

「おー、きしもとくん、今日ちょっとうるさくてごめんね」

「いえいえ、繁盛してはりますね〜」

「ありがたいことにね」

 お店は基本マスターが一人で切り盛りしていて、週末だけアルバイト君が手伝いに来るのだが、その日は平日ど真ん中だったのに何故か混んでいた。

「何にする?」

「赤で」

「あいよ」

 グラスを取り出し、汚れがないか照明にかざして確認をする。しびれるカッコよさがある。

「マスター、今日暑いですね」

「そうだねぇ。あ、氷入れる?」

「おなしゃす」

 マスターはそう言うと、ブルゴーニュ型のワイングラスに氷を入れ、冷蔵庫で冷やしたワインを注いでくれた。

「え、氷入れてお飲みになるのですか?」

 僕とマスターの会話にいきなり割り込んできた人がいた。一つ空席を挟んで隣に座っていた女性だった。ハイスツールの上で姿勢良く座っていて、言葉遣いからしても育ちが良さそうな人だった。

「まぁ、高級なワインならまだしも、これくらいのテーブルワインなら別に好きなように飲んでいいと思うよ。はい、きしもとくん、どうぞ」

 マスターは彼女にそう答えながらワインを出してくれた。そして、ボトルを冷蔵庫にしまいながら、話を続けた。

「そういえば、きしもとくんも君と同じ大学だよ。話が合うと思うから、よかったら話してみてよ。僕今日ちょっと忙しくてあんまり話せないと思うし」

 マスターの紹介で知らない者同士で話して仲良くなることはよくあることだったから、ためらいなく話すことが出来た。

 話しかけてきた彼女は、僕と同じ大学で演技について研究している人だった。某イギリスの俳優のことがあまりにも好きすぎて、大学で演技について研究をし始めたとのこと。
    初手から完全に変な人で、面白そうな予感しかしない。
 彼女の言葉の端々には教養が見え隠れしていて、好奇心を刺激された僕は時にワイングラスを傾けながら熱心に話を聞いた。氷でよく冷えたワインは、心の火照りを鎮めるのにちょうど良かった。

 話題は演技から戯曲、そして文学へと移った。ここまで来ると、話はもう留まる所を知らなかった。彼女の話の熱で僕のオタク魂にも完全に引火していて、ヘミングウェイについて思うことを語りに語った。僕が話している間、彼女もまた、僕がおすすめしたカクテルのダイキリを飲みながら話を聞いてくれた。

 話をして、話を聞いて、カクテルを飲んで、煙草を喫う。その忙しさで、自分が12時間以上何も食べていないことが全く気にならなかった。
 気付けば手元の灰皿の余白が喫殻で埋まりきっていて、視野の端にあった時計に意識だけ向けると3時間近く話し込んでいた。

 意識を時計から視野の中心に戻すと、目が合った彼女が言った。

「バーに来るのは今日が初めてですけど、勇気を出して来てよかったです。あなたとお話しできて本当に楽しい。とっても素敵な夜です」

 『とっても素敵な夜』

 こんな言葉を、他者の口から発せられた空気振動として認識したのは生まれて初めてだった。クサイと言われかねない綺麗な言葉を実際に使う人もこの世の中にいて、その言葉は聞く人の心にも大きな感情の変化をもたらすものなのか、と心から感激した。

「俺もとっても楽しいです」

 『俺』という一人称に自分を残して、『とっても』という彼女の言葉をそのまま使って遊んでみた。

「ふふ、真っ直ぐですね」

「何がですか?」

「私とお話をすると、『俺』の皆さんは途中から必ず『僕』に変身なさるんです」

「育ちが褒められたものじゃないので、一人称だけではもうどうにもならないんですよ」

「そういうところもです。あの、急ですけど、カラオケはお好きですか?」

「好きですよ。ためらいと恥じらいがない音痴なので」

「もしよろしければ、今から行きませんか?私、少し歌いたくなってしまって」

 生きていればこんなこともあるのだな、と感慨深くなりながら返事をした。

「いいですよ。お供します」

 僕らは、深夜なのにまだ賑わうお店を抜けて、昼の名残でぬるい夜の街に出た。カラオケ店はバーの前の坂を下って数分の距離にある。
 彼女はハミングをしながら僕の2歩くらい先を軽やかに歩いた。そして、前触れ無く立ち止まって、左かかとを軸にくるっと振り返って言った。

「たしかに、赤ワインに氷を入れてもいい季節ですね」

 すべてが完璧だった。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。