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『現代の「悟り」があるとすれば、それは何か?』―仏陀と我々の違いと共通項―

思弁哲学シリーズ、今回は『現代の「悟り」があるとすれば、それは何か?』について。

「悟り」とはこうである、と決めるのではなく、「悟り」があるとすればそれはどんな物なのだろうか? という思索を巡らせてみるものになります。

仏教における「悟り」

さて、まず本来の「悟り」とは仏教用語です。サンスクリット語の音写でbodhi(ブッディ)と呼ばれており、菩提、涅槃、解脱、あるいは覚悟、証得とも表現されます。

多くの人が漠然とイメージする「悟り」は、『世界の真理と人生の答えを知り、どんなことにも心を惑わされなくなった理想の状態』というような形で言語化できるかと思います。

とはいえ、実は仏教における「悟り」、あるいはそれに相当する語にはかなり幅広い意味があり、宗派や時代によって解釈が別物に近くなっていたりもします。

四諦(してい)、四沙門果、六波羅蜜。仏教が歴史と共に世界的宗教として発展するに従って、そこには様々なしがらみや政治的思惑、権威づけ、何より個々の信仰者による独自解釈が挟まっていったからです。これは自然なことだと言えるでしょう。

なのであくまで仏教的観点から「悟り」を研究してもかなり膨大な内容となるのですが、ここでは『「悟り」に相当する精神的状態とはどんなものか?』という側面から、先程の記述よりもう少し深く考えてみたいと思います。

理想的な精神の探究

一言で言えば、それは「理想的精神状態」です。
古今東西のあらゆる宗教が、そしてあるいは哲学者や、あるいはもっと胡散臭いと言われる人々まで。さらにはこの世のすべての人が、それについて一度は考えたことがあるかもしれません。

宗教において、この「理想的精神」に至る方法は儀式、呪文、生活作法、決まり事、そして神話と神の存在によって目指されてきました。

明確に自分の精神を理想的な状態にしたい、と願うかどうかは宗教によって異なりますが、困難な時代を生き抜く上で神に祈りを捧げて心の安寧を得る、というのはささやかな「悟り」の第一歩と言えるでしょう。

「悟り」という概念を世に送り出した覚者仏陀、ガウタマ・シッダールタその人自身もまた王家に生まれながら戦争や飢餓、病と貧困の絶えない当時のインド地域の現実に苦悩し、様々な場所を巡って世界の答え、人生の意味を問い続けた人でした。

その歩みは多くの学びの中の長く困難なものでありながら、最終的に彼が悟りを得たとされるのは菩提樹の木の下でした。また、当初彼は「悟り」を他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたとされています。

つまり、彼は旅の中で多くの思索を巡らせ、論理を組み立て、しかしそれを答えとはできずにいた末に、菩提樹の木の下で感覚的に「悟り」と出会ったのです。

このことから、「悟り」とは論理的な構造と感覚的な直感の双方を併せ持つものだと言うことができます。

「悟り」における論理と感覚

この説については、いくつかの傍証を立てられるでしょう。多くの哲学者が世界の真理や人の生きる意味について追及しましたが、ただ論理だけを持っていた哲学者の中にはむしろ世界に絶望する者も多く現れました。

それ自体は、彼ら優れた哲学者の歩みにもまた偉大な価値があるため決して誤りではないものの、しかし論理だけで成り立つのは何かが足りていないと言えるでしょう。何故ならそれは心を扱う命題であり、感覚というピースを抜きに考えることはむしろ論理的でなく、合理性に欠いているからです。

料理は科学だとよく言われますが、しかし作った料理の味を知らず、ただ材料の科学的組成だけを暗記していては、技術が上達はしても「これに何の意味がある?」と悩んでしまうのは当然です。

美味しい料理を食べたい、あるいは美味しい料理を誰かに食べさせたい、という感覚的な願いがあるからこそ、料理の科学的な技術を磨いていくモチベーションが生まれるわけです。(科学者が数式のロマンや工学的美学の素晴らしさに魅せられるのも同様に。好きでもなく、モチベーションもなしに論理を扱い続けることは空虚です。それが正しかったとしても)

また、逆に感覚のみで真理を捉える場合はどうでしょうか。もちろん「悟り」がどのような感覚か、厳密に証明することは困難ですが、しかしいわゆる神秘体験だとか、非常な多幸福感、充足感、心の落ち着きを得ることはありうる事です。

仏陀が菩提樹の下で経験したという感覚も、物理的には「乳粥を食べて空腹が満たされ、河を渡ってほどよく運動し、菩提樹の下の木漏れ日で心地良くうたた寝をした」という現象だったと考えられます。不信心ですね。

ですが私が言いたいのは、『仏陀と物理的、肉体的には同じ感覚を味わったとしても、それだけで「悟り」を開いたことにはならない』ということです。

仏陀、つまりシッダールタ王子も人間でしたから、物理的刺激としては生物が感じるごく自然なものだったはずです。脳の分泌系や神経作用が極めて稀な状態、いわゆるアスリートの「ゾーン」だとか、そういった条件が整ったのだとしても、やはり再現性はあると考えられます。

ランナーズ・ハイ、性的快楽、味覚の喜び、睡眠の癒し、人間関係から得る温もり。あるいは強烈なドラッグによる脳内物質の強制的な操作。

感覚的には、「脳に幸せを感じさせる」ことはさほど難しいものではありません。仏陀と同等の感覚を疑似的に再現することもできるでしょう。

しかしドラッグによって得た脳の快楽を、人はどう受け止めるでしょうか。人間は良くも悪くも思考する生き物です。「これがドラッグによる刺激である」ということを、忘れることは決してできません。

別のケースを考えるのならば、新興カルト宗教やスピリチュアリズムがあります。そうした中には穏便な互助組織的なものもありますが、過激で破壊的なものも決して少なくはありません。

それらは世間に対し害を齎すため、当然否定され、非難されます。自らの脳をカルトの論理で一時的に騙していられる間は幸福かもしれませんが、最後には理解してしまうでしょう。「あれは偽物だった」、と。

強引な表現にはなりますが、仏陀の「悟り」とドラッグやカルトの違いはそこです。世界に正しく適合した論理を持っていること。あるいは「世界と自分自身に論破されないこと」と言えるかもしれません。

人間は考える葦ですから、素晴らしい感覚を得た! と一時的に思っても、考えてしまうわけです。「それは正しいのか?」「それは本当に素晴らしいものなのか?」と。

例えばグレッグ・イーガンの短編『祈りの海』では、幼少期に海で神秘体験をした主人公が揺るがない感覚を唯一の寄る辺として敬虔な信仰者として研究を続けるが、最後に「彼の種族が海の微生物と反応することで生まれる脳内神経作用」が彼の信じた感覚の正体である、と自ら突きとめてしまい絶望します。神の実在の証だと考えた感覚はただの脳の見せた化学反応に過ぎず、偽物だった、とすべての寄る辺を失ってしまうわけです。

そのため、意外に思えるかもしれませんが「悟り」には強靭な論理性が不可欠です。「この感覚にはこうした意味があって、だからこの喜びは世界と人生の真理たりえるものなのだ」と。そう確信できるほどの論理が。

そんな風に言うとそれこそカルトっぽいですが、しかし「幼い頃から夢を追い、必死に努力し続け、オリンピックの金メダルを取った選手が苦労をかけてきた母と抱き合って流した涙の喜び」を否定できる人がいるでしょうか。

確かに喜びそのものは、脳が特定の刺激に対して反応したただのパターンかもしれない。まったく同じ物理的刺激はドラッグで再現できるのかもしれない。

けれど選手本人やその母親も、それが決して間違いではなかったのだと確信できることでしょう。世界中の人々に夢や希望を与えたのだ、という事実もまた感覚を論理として支えています。

つまりはそういうことです。宗教的な話から反れてしまいますが、しかし現代においてはむしろそれこそがある種「悟り」にも近いと言えるかもしれません。歴史的には、不明瞭な世界と人生の揺るがない答えを定めるには神の存在を必要とした。科学によって多くの事象が解明された現代では、それ以外のものが求められる、という風に。

とはいえ、なにも金メダリストだけが「悟れる」わけでも、金メダリストが全員悟っているわけでもないでしょう。仏陀は「理想的精神状態」を完成させる答えとしての「悟り」を開いたのであって、アスリートの目的はそうではありません。あくまで一般的な人に比べれば少しそれに近い、という程度です。

ともあれ、「悟り」には論理と感覚の双方が必要である。
言い換えれば、「考えることのできる我々には、見つけた理想的な『感覚』が答えだという『論理的な根拠』が必要である」というところでしょうか。

「悟り」は本来個人的なもの

さて、比喩として金メダリストの例を出したり、仏陀という世界宗教の創始者が例であったりしたせいで、少し誤解が生まれるかもしれません。

「世界中の人々を納得させなければ「悟り」ではないのだ」、という風に。

そんなことはない、というよりそれは不可能です。
それは我々が主観的な存在であり、この世界が主観で成り立っているからです。

まずそもそも、オリンピックの金メダリストでさえ世界70億人以上のすべての人間が認めているわけではありません。嫉妬や無関心、様々な理由で彼の栄光に賛同しない人は当たり前にいるでしょう。

仏教もそうです。世界宗教とはいえ他にもキリスト教やイスラム教がありますし、科学の現代では無宗教も多い。「仏陀は真に悟ったのだ」という結論を認めない人がいても不思議はありません。

そして、別段それらは間違ったことではありません。むしろ全人類がまったく同じ結論に両手を挙げて賛同するなんて不気味ですし、それでは70億人もの多様性を確保している意味がありません。それぞれが違うからこそ、様々な可能性を模索できるのが我々人類の強みです。あるいは、そもそも生物や物質でさえそうした広範な多様性を必要としています。

多様であるがゆえに、誰もが異なった主観を持っている。
ならばそもそも前述の「世界と自分を納得させる」のにはどんな意味があるのか? というと。

要するにこれ、「世界に否定されると自分も納得しづらい」というだけの話だったりします。元祖の仏陀さえも含めて、大抵の人間は社会の中で暮らしているので、社会から否定され続ける考えを正しいと思い続けるのは少し難しいもの。あるいは過度な反発によって、カルト化をしてしまったりすれば本末転倒です。

仏教の歴史上、仏陀の広めた初期仏教は後に上座部仏教と呼ばれ、大乗仏教と区別して扱われるようになりました。これは「上座部仏教は個人が悟って救われるだけで、民衆を救わない」と非難が生まれたためです。

しかしそもそも、本来仏陀は「悟り」を模索していたのであって、世界が勝手に救われる理屈や神話を説こうとはしていませんでした。彼は頭が良く哲学者的気質だったので、「死んだら仏様が極楽浄土で救ってくれるよ」というシンプルな論理では納得できなかったのです。

しかし仏教が世界宗教として広まるにあたって、民衆を救う教えも必然的に需要が生まれました。農民やら何やら、世の中悠長に「悟り」を模索してられる人ばかりではありません。今日のご飯のために生きなければならないのです。彼らの現世での頑張りは仏様が見てくれてるよ、という大乗仏教の思想は、歴史の流れとして生まれる必要と必然を備えた過程だったと言えるでしょう。

とはいえ。「悟り」、すなわち「理想的精神状態」を追い求める場合、やはり感覚と論理を揃える必要がある、ということは仏陀の頃から変わりません。

そして時代ごとの宗教的要請を別にして考えるのなら、最初から「悟り」とは個人に、つまり自分で自分自身に対してのみ与え得るものだと言えます。

書物や師匠に教わったり、先人の残した宗教を一つの道として捉えてもいいでしょう。科学の論理を扱うならば、車輪の再発明をする必要はないはずです。

論理と感覚が必要、ということはつまり感覚を体感した後に学ぶか、あるいは学んだ後に感覚に触れるか、ということで。半分は勉強のようなもの、あるいは自ら打ち立てる研究のようなものだからです。

それでも、最後に自分自身と世界に最も適合する論理を得るのは自分自身です。世界を認識しているのは自分の主観であり、どんな生き方で世界と関わっていくかを決めるのも自分自身だからです。

「悟り」とは、自分らしく生きる生き方を選び、それに対する揺るぎない答えを感覚と論理の双方で見つけることだと言えるでしょう。

現代人と「悟り」の在り方

上記のように定義するのであれば、現代社会がどんな構造で、何があろうと、「悟り」に到達できないというわけではないはずです。仏陀とは環境も立場も何もかも違ったとしても。自分自身の主観と生き方に最も適合した答えさえ見つけられたのなら、それは「悟り」と呼ぶに値します。

そもそも「私は悟ったのだ」と誰かに証明することはできませんし、その必要もありません。教祖様になればまぁ似たようなこともできるかもしれませんが。あまりそれは現代の世界に適合したやり方ではなく、つまり「悟り」からは遠ざかってしまうでしょう。

ですが逆に、「悟り」を否定すること、されることは簡単にできます。
誰かに論駁されたり、あるいは苦しい状況に立たされたりして、自分が「悟り」だと思っていた答えが揺らいでしまった時。それは、誰よりも自分自身がその答えが絶対のものではないと受け入れざるを得ないからです。

「悟り」は極めて主観的な現象であり、そのためある意味では誰にでも「悟り」に到達することはできますが、しかしその状態を常にいつまでも維持することは難しいことです。優れた論理と感覚を備えていても。

そもそも釈迦自身、どんな状況に晒されても揺るぎない「悟り」であったのか。そんなものが存在するのか。そもそも、そうでなければならないのか?

そう、「悟り」とはなにも完全でなければならないとは限らないのです。
途上でも構わない。というよりも、考え続けることにこそ意味がある。

100の困難で20回心が揺らいでしまう論理と感覚は、完全な「悟り」ではないかもしれない。とはいえ、80の困難を乗り越えられる精神は決して悪いものではない。80を乗り越える論理と感覚を培う過程で得たものがある。

どこまでも目指し続けたいと考えることこそが素晴らしいと。どこまで進もうとも途中であり、だからこそ前を向きたいと思う答え。

それが私にとっての、未完成を楽しむ「悟り」です。

世界は主観的であり、人生は主観的。
だから「悟り」の形も千差万別で、答えは自分自身が思い描くものでいい。
その答えがどんなものだったとしても、自分らしくあるといい。

あなたの「悟り」は、どんな色をしていますか?



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