恩師の言葉 ~お前は馬鹿だ~

私には恩師と呼べるような人がありがたいことにたくさんいる。たくさんいる時点でそれは恩師ではない、とお𠮟りを受けるかもしれないが、私にとってお一人お一人が尊敬する方々であり、今の私を形作るのに大きな影響を与えてくれた方々だ。だから私には恩師がたくさんいる。そんな恩師のうちのお一人の言葉を今日は紹介させていただきたい。

「お前は馬鹿だ。」

その恩師はことあるごとにそう言ってくれた。大学1年生のころから大学院を修了するまで、大学内でも個人的にもお付き合いさせていただいた教授の言葉だ。私はその先生のゼミに所属したわけではなかったが、いろいろなところでお話をさせていただき、議論させていただき、ご一緒させていただいた。自分のことを「仙人」と自称する、少し変わった先生だった。そのような恩師がことあるごとに言う。「お前は馬鹿だ。」

そして、時折こういう言い方もしてくださった。

「お前は馬鹿だ。馬鹿であることに誇りを持て。」

のちに「先生がこう仰られたことが忘れられません。」とお伝えしたら、「そんなことを言った記憶はない。」と返されたが、確実に言っている。私の耳に残っている。

「お前は馬鹿だ。馬鹿であることに誇りを持て。」

これは、物事を知らないことを恥ずかしく思うあまり、分かったふりをしたり、浅い考えのまま知識をひけらかしたりする私への戒めの言葉であった。間違ったことを発表するのを怖れるがあまり発言を控え、簡単に調べただけで分かり切ったつもりになる私にかけていただいた言葉だった。

自分は馬鹿である。本当は分かっていない。知らないことも多い。

その姿勢に立つことによって、「分かったつもり」になることを少し防いでくれる。知らない物事を「知らない物事」として受け止めることを可能にしてくれる。そこに不要なプライドなどを介在させることはない。「知らない物事」を「知らない物事」として受け止め、受け入れることができる。そんな心の持ち方へと導いてくれる。そういう意味で、馬鹿であることに誇りを持っていいのだ。

しかし、馬鹿は馬鹿のままでいるわけにはいかない。「知らない物事」に出会ったら、その「知らない物事」を「知る」ために追究を始めたい。その途中でも、「お前は馬鹿だ。」という言葉は私を助けてくれる。ちょっと調べた時点で、馬鹿な私は知識の再確認を余儀なくされる。調べたことについて、整合性が取れているか、自分で説明して納得ができるか、馬鹿であるがゆえに確認が必要になる。そこで、やっぱり見落としていた点や矛盾に気づくことができるかもしれない。こういう点に気づき、再度知識の構成に挑むことができるのも馬鹿であることにプライドを持っているからなのだ。

恩師の言葉である「お前は馬鹿だ。馬鹿であることに誇りを持て。」は、このように私の学ぶ姿勢を作ってくれた。馬鹿であることに誇りを持ち、学んでいく。一生涯大馬鹿者で居続けるために、今日も考え、学んでいきたい。

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