風と埃と蜜と翼と_

風と埃と蜜と翼と。

午後四時半の教室ではいつものように、先生が奏でる念仏のような声色で補習が進んでいる。それをぼうっとした頭に辛うじて流しこみながら、あたしは自然と聞こえてくる歓声に惹かれて窓の外を眺めた。
狭い一室に押しこめられた人の気も知らずに、文句を言いたくなってしまうほど清々しく晴れ渡った空の下では、補習を受けていない生徒達が部活動に励んでいる。
別に必要もないのに汗を流したがる——これは多分、すごく穿った見方——運動部の子達の考えはどうしても分からないけれど、そんなみんなを見ているのは好き。
自分が、あまり頑張らないからかな。その分、頑張っている人を見るのが大好きなの。
私の分まで頑張ってね、なんて、応援にもならない言葉をそっと心のうちに呟く。
『頑張れ』なんて都合の良すぎる無責任な言葉、みんなはきっと嫌いなんだろうけど、あたしの中にはそれぐらいしか見つからない。何だか、とても眩しくて、かける言葉が見つからないの。

そんな外の風景をぼんやり眺めていると、一際目立つ存在に気づく。
あぁ、河原(かわら)くんだ……姿勢がいいから、すぐに分かる。彼は陸上部の大会に出るとかで、確か当分の補習を免除されていたっけ。
歪みのない真っすぐな、スタートラインに立って。
……構え。
パン! という破裂音と共に、駆け出す。
その仕方は、他の部員達と比べて格段に、『鋭い』。
『鋭い』なんて形容は、ちょっとオカシイかなぁ……そうも思うんだけど、彼の走りはそんな感じがする。
風に乗ってではなくて、風とともに走る。そして矛盾しているけど、同時に周りの空気を切り裂くように。
初めて見たときから、すごく綺麗だなって思ってた。グラウンドに佇む彼の姿は、どうしたって、目に入ってしまうの。
うぅ……それにしても、さっきから痛いくらいに真っ直ぐな夕陽が、窓から入ってくる。
もう、そんな時間?
綺麗だから、綺麗だから……もう少し見ていたいから、終わって欲しくないなぁ。
普段のあたしには絶対に浮かばないような考えが、さらりと脳裏を掠めた。
今日はまだ、終わって欲しくないよ、補習。ダメかなぁ?

自覚した考えは、何だかひどくむず痒くて。そうこうしている間に、教室のみんなは一斉に問題を解き出していた。
……全然、話、聞いてなかった……。
「どこ、やるの?」
隣の水川(みずかわ)に囁くと、彼女は先生の目を盗んでルーズリーフを小さく千切り、何文字かをそっと書きつけた。それを再び、先生の目を盗んで回してくれる。
水川の隣の席には誰も座ってない。そこはつまり、補習を受けていない生徒の机で、冷たい机と椅子だけが八本足でただただ静かに立ち竦んでいる。このクラスにそんな生徒はたった一人しか、いなくて。存在しない温もりに少しだけ淋しさを感じながら、受け取った紙片へと視線を落とした。
『練習問題の問五から問十まで』。
ありがとう……と目配せしたら、変な顔をされた。そして続く、小さなジェスチャー。
え、『中を開けてみろ』?
……あ、よく見たら二つ折り。
ゴメン、ともう一度目配せをしてから、言われるままに中を見ると。
『河原、気になる?』。
………………。
我に返って横目でじっと睨めば、水川はこみ上がる笑いを噛み殺すみたいに下を向いた。

カリカリカリ、とシャーペンの芯が削れる音が響く。そこへ時々、ポキリという音がして悔しそうな舌打ちが混じる。
念仏先生は、船を漕ぐ。補習中に寝る先生って、どうなの? ……毎回思うんだけど。
教室が静かになると、余計に聞こえてくる。
外からの声、靴と土が擦れる音、鳥が鳴く声、風が葉を攫う音、渇いた声、湿った音。
音、声、音。
そんな中からあたしの耳が拾ったのはやっぱり、きゃあ、と一際高くて大きな声。
それは大抵、河原くんに向けられている声。
何でだろう、分からないけれど、どうしても耳を澄ませてしまう。教室の中で、彼の声なんていくらでも聞いているのに。——別に聞いたって嬉しくもない、くしゃみとかまで。
なのに、どうしてグラウンドにいる彼の声は、こんなに聞きたくなるんだろう。
堪え切れず、窓の外に目を向ける。タオルやら何やらを持った数人の女子が、走り終えたばっかりの河原くんの周囲に集まっていた。
これは、当たり前の光景。
ここまでは、ごく当たり前の光景。
あたしは次の瞬間、自分の両眼を疑った。

タオルとドリンクを受け取って、にこにことした表情はいつも通り。
なのに、その背中には——黄色い、そう、靄のようなものがかかっていた。
どこから湧いて出ているのか、目を凝らす。
……周りにいるみんなの口元から、止めどなく零れ出す賛美の声?
それは透き通っていたけれど、河原くんの背中のすぐ近くでふんわりとした黄色の靄となって、そこにそのまま蹲る。
みんな、見えていないの?
河原くん、気づいてないの?
黄色の靄はみるみるうちに大きくなって、その色を濃くして。強い夕暮れの太陽に照らされて、それはものすごく綺麗に輝いて。
ついには一対の翼となって、姿勢良くしなやかな背にぴたりと貼りついてしまった。
彼は満足気な顔をして、さも当然といったようにその背の翼を羽ばたかせる。まさに『太陽の微笑み』とでも名づけたくなるような笑みを、その口元に浮かべながら。
そして、遠くから、確かに聞こえてきた。まるですぐ隣にいるのかと錯覚しそうなほど近い、その声。

「ありがとう。みんなの応援のおかげで、僕は自由に飛べるんだ」

……ものすごい、ファンサービス……。

そう、思った刹那、目の前のイメージはぷつりと途絶えた。
違う、途絶えたのではなくて、視界が一面、覆い尽くされた。
彼の背に生えた黄金の蜜色に。彼が、音を立てて羽ばたかせた、煌くその色に。
それが段々と影を帯びて、黄は黄でなくなって、暗く暗く、濁るように暗く。

「漣(さざなみ)」
……え?
「補習、終わったよ」
……河原くんは?
背中に生えた、あの、黄色い翼は?
「漣っ。まだ寝ぼけてんのぉ? 早く帰ろ」
「……う、うんっ」

水川にそう答えてから、恐る恐る窓の外を眺める。そこにはいつもと変わらない夕焼け。グラウンド。砂埃。
黄色い、声。
そして、いつもと変わらない……翼なんて持たない河原くんが、独り佇んでいた。


風と埃と蜜と翼と。 終
再掲元:個人誌「色葉言葉(いろはことのは)」2003/11/06

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