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蘇芳の花が咲いていた

先週、飛行機に乗って無人の実家に帰った。タクシーが玄関先に着いたとき、思わず「ああ」と声が出た。

庭の一番奥にある赤紫の花蘇芳(ハナズオウ)が咲いていたからだ。

実家が無人になった経緯はこちらで。

深い深いところに潜っていったまま帰ってこない入院中の母は、私が幼い頃にチューリップやガーベラといった花を好むのを見て、「あなたもそのうち木の花が好きになるわよ」と言った。

庭木や花を育てるのがとても好きで、上手だった。春先には梅、春から夏にかけては藤、紫陽花、秋にはキンモクセイや皇帝ダリア、冬にはサザンカなどが咲いた。そんな実家の庭も、母が入院してのち手入れをする人が誰もいなくなり、鉢植えの花や木はすべて枯れ絶えたように見えた。

寒々とした庭を眺めて、この庭に生気が戻ることがあるのだろうかと考えていたけれど、地面から生えた木はしっかりと生きて、また花を咲かせた。母に聞かせたら喜ぶだろうか。

そんな母は、父が死んだことをまだ知らない。

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乱雑な部屋

今回の帰省には目的があった。実家にセキュリティサービスを入れることにしたのだ。誰もいない一軒家は、そのままにしておくには不用心すぎる。入られて困るものは何も置いてないけれど、知らない人に入られたら気持ちは良くないだろう。火事を出すのも怖かった。

東京のマンションにセコムが入っているので、実家でもセコムを契約した。すべての窓に防犯センサーを、部屋の天井に火災センサーをつけてもらう。

そのためにやらなくてはいけないことがあった。部屋の整理だ。ものを捨てることが嫌いだった父は、あらゆるものを保管していた。それは自分の部屋にとどまらず、実家の3部屋を完全につぶしていた。入口にものが置かれた開かずの間もあった。

私が生まれた頃からあるレコードプレーヤー、4本の足のついたテレビ、水屋箪笥。カメラ。ワープロ。ボウリングのボウルやピン。アコースティックギター。ソファベッド。大量の服やレコード。鳥籠。写真のアルバム。文字通り足の踏み場もないほど乱雑に押し込められたものを動かさなければ、窓にセンサーをつけることは不可能だった。

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どうせ、いずれは捨てなければならない。ゴミ袋に入れられるものは入れ、自力で動かせるものは動かして、なんとか窓が見えるようにした。1日中、作業をしていてふと気がついたことがある。

母のものがない。

女の居場所

父も私も部屋を持ち、自分のものをそこに置いて暮らしていた。しかし、思い返しても、8部屋もある実家に母の部屋はなかった。母はいつも、台所か応接間にいた。着替えや服は和室の箪笥に整理されていた。それきりだった。本当に、何もなかった。

母が個人として生きた軌跡や証はほとんど見当たらないのだった。たとえば手帳だったり、ペンだったり、本だったり、手紙だったりといったようなもの。その人が何を好んで何を考え、生きてきたかということがわかるもの。

父は昭和の初め頃の生まれにしては珍しく、母や私を尊重する人だったけれど、その父の伴侶であった母ですら、このように証を残さず生きてきた。それが母の生き方だったのだろうか。それとも他の大勢の女たちもそうだったのだろうか。

考えても、答えは見つからなかった。

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実家からの帰り際、庭の草むしりをしながらふと思った。

毎年毎年、丁寧に手入れをしながら庭木を咲かせることそのものが母の人生だったのかもしれない。それだけで、他に何もいらなかったのかもしれない。

本当のところはわからないけれど。母に伝えようか。

あなたの庭に、私が好きになった木の花が咲きました。

【取材・依頼歓迎】おひとりさま、遠距離介護、肉親の孤独死、空き家、相続、実家じまい、残されたペットなどについて、書くことも話すこともできます。顔出しOK。お役に立てそうなことがあればsara<at>edittheworld.jpにご連絡ください。

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