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10月20日までもう少し

「今日は10月10日でしょう」と、母は言う。
「うん、そうだよ」と、スマートスピーカー越しに私は答える。私の手元のスマートフォンで母の姿が見える。施設で寝たきりの母の部屋にある小さなディスプレイには、私の顔が映っているはずだ。

「私の誕生日じゃなかったかな」
「いや、お母さんの誕生日は10月20日だから、もう少し後だね」
「そうか、今日かと思っていたよ。美智子妃殿下と同じ誕生日ということは覚えていたけれど、今日じゃなかったんだね」と、母は答える。

母がレビー小体型認知症と診断されて3年経つ。


3年前。様子がおかしいと私が気づいて、東京から飛行機で実家に様子を見に行った時には、既に手足がブルブル震えるパーキンソン症状が出ていた。

毎日毎日、長時間の電話をあちこちにかけまくり、それには私も含まれていた。いい加減おかしくなりそうだと考えていたところ、ある日ぴたりと止んだ。

それからたった3か月しか経っていなかったが、母は半年前の帰省時からは見る影もなく、痩せて震えていた。

こうなるまで、私は父に何度か連絡をしていた。お母さんの様子がおかい気がするけれど、何か変わった様子はないか。父は「お母さんはおかしくなんかない」と言い張っていた。そう思いたかっただけだったのだと思う。

連日の電話が止む少し前に私にかかってきた時のことを思い出した。

「なんだか、自分がおかしくなってしまいそうな感じがする。近所の精神病院に連れていってほしい」と言っていた。背後で父が怒鳴っているのが聞こえていた。精神病院なんてバカなことを言わないで。あなたはどこもおかしくなんかないと。

この時、母は自分が自分でなくなっていくことを、どこかで感じていたのではなかったろうか。

ある日、早朝の4時半にかかってきた電話をしぶしぶ取ると、母はこう言った。「これまでずっと、私は良いお母さんじゃなかったと思う。何もわからなくなる前に、謝っておくね。ごめんね」

何をバカなことを、と、私はまともに取り合わず、すぐに電話を切ってしまった。それから電話はかかってこなくなった。


もの忘れは少ないが、自分がいる場所や日時などを把握する能力が衰え、無表情になり、1日のうちの良いときと悪いときの差が激しく、それを繰り返しながら少しずつ状態が悪くなっていくらしい。

スマートスピーカーで話しかけるときも、実際に会いに行くときも、その無表情の下に豊かな感情が隠されているのか、それとももうほとんど心は動いていないのか、私にはわからない。

自分の誕生日を忘れてしまった母。しかし、幼い頃から農家の労働力として期待され、中学校までしか行かせてもらえず、運転免許証1つで自分の道を切りひらき、父に出会って私を産み、今までなんとかやってきた。

もうすぐ母の誕生日。その苦難の道のりを、ひとつひとつ、忘れながら、楽になってくれているといい。これまでずっと良い娘ではなかった私は、今頃になってそんなことを思っている。


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