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【掌編小説】夢蛾夢虫

「ねえ、パパ。ユウタ最近おかしいのよ」
「おかしいって何が?」
リビングテーブルに座ってネクタイを緩めながらヒトシは訪ねた。
「ん〜なんていうか、前にも増して本ばかり読んでるのよ。それこそご飯も食べずにずっとよ」
「へえ、いいことじゃないか。好奇心が爆発してるんだろ。中学生だし」
「何よそれ、もっと真剣に考えてよ」
夫の不真面目な言葉にマサコはムッとした。
「わかったわかった。ちょっと話してみるよ。まだ起きてるかな?」

数分後、ユウタの部屋からヒトシが戻ってきた。
難しそうな顔をして椅子に座ると、ポツリと言った。
「たしかに変だな」
「そうでしょ?ちょっと異常なくらい本に執着してるのよ」
「そうだな。なんか他の物が視界に入らないくらい夢中って感じだな」

お互いに息子ユウタの様子が少しおかしいということは共通認識としたものの、ゲームや何かとは違い本に夢中になってくれる分には悪いことではないだろうと、特に対策を講じようという話までは及ばなかった。

そうして様子見をしてしまったことがよくなかったのだろうか、ユウタの本への執着は次第に強くなっていった。
食事をさせること、お風呂に入れることが一苦労だった。
気付けば学校にも行かず、部屋で本を読みふけるようになった。

「ちょっとあなた大丈夫なの?」
食事をさせるために部屋に入ったマサコはユウタの顔色の悪さに驚いた。
さすがにこれ以上放置するわけにもいかないと思ったマサコはユウタを病院へ連れて行くことにした。
しかし、顔色が極端に悪いことを除けば体調不良を訴えるわけでもない息子に、何科を受診させればよいのか判断がつかなかったので、とりあえず内科から心療内科まである総合病院へユウタを連れて行った。

内科の所見では特に異常は見られず、むしろ、心療内科へ行くようにと勧められた。
心療内科でも強迫性障害のようなものが疑われるが、対象が読書ということもあり判断しかねるとのことだった。
結局のところ病院では何もわからなかった。
前も見ず、片手に持った本を読み続ける息子の手を引いて歩きながらマサコは途方に暮れていた。

「ちょっとあんた、病院帰りかい?」
病院の脇にあるバス停のベンチに腰掛けた老婆がマサコに話しかけた。
「ええ、そうです」
「息子さん、どこも悪くないって言われたじゃろう?」
老婆の唐突だが事情を見透かしたような言葉にマサコは驚いた。
「はい、どうしてわかるんですか?」
「どうしてって、その子は夢を見てるだけじゃからさ」
「夢を?どういうことでしょうか?」
「胡蝶の夢って話知ってるかい?」
「夢で蝶になって自分自身を蝶の視点で見るようなお話でしたっけ?すみません、うろ覚えで」
「そう、その話だよ。夢と現実の区別が付かなくなる、蝶と見下ろしている自分、どっちが夢だったろうか?とな」
老婆はけっけと乾いた声で笑った。
「あの、ちょっとおっしゃる意味が、、、」
「若いもんが知らんのも無理はない。最近じゃめっきり見なくなったからのう。無我夢中って言葉知ってるじゃろ?」
「ええ」
「昔は夢蛾夢虫と書いた」
そう言うと、ポケットからとても短い鉛筆と汚れたレシートを取り出して、その上に夢蛾夢虫と書いてマサコに見せた。
「神隠しなんて言葉聞いたことあるじゃろ?それもこいつの仕業じゃ」
「こいつってどういうことでしょうか?」
マサコは老婆の話に完全に混乱していた。
「簡単に言うと、あんたの息子には夢蛾夢虫が憑いておる。家に帰ったら沸かした風呂にこれを浮かべて息子を湯に浸からせなさい」
そう言って老婆はティーバックのようなものをマサコに手渡した。
不気味な老婆だったが、なんとなく抵抗出来ずにマサコはそれを受け取ってしまった。
「あ、ありがとうございます」
「わしはそろそろ行くよ。ちょうどバスも来とるし」
後ろを振り返るとちょうど市内の循環バスが到着していた。
老婆は予想外の軽やかな足取りでバスへ乗り込んでいった。

マサコは受け取ったものをしげしげと眺める。
何か植物を乾燥させたもののようだが得体は知れなかった。
一つだけ確かなことはそれが猛烈に臭いことだけだった。
ティーバックのようなものの下敷きになっている紙切れには夢蛾夢虫の文字。
マサコはなんとなく気になって紙切れを裏返してみる。
「蛾や蝶の仲間は非常に嗅覚が優れている。これは夢蛾夢虫の嫌う臭いを発する植物を乾燥させたもの」
息子が何か得体の知れないものに取り憑かれているなど信じられるはずもないが、ここまで見透かされているとなるとマサコは少しおかしな感じがして笑ってしまった。

家に着くまであれこれと考えたが、結局マサコは老婆を信じてみようという気持ちになっていた。
その後老婆に言われた通りティーバックのようなものを浮かべた風呂にユウタを入れると、ユウタは我に帰ったかのようにしゃっきりとした。
なぜこんな臭い風呂に入れたのかと怒ってもいた。
マサコがこれまでのことをユウタに説明したが、ユウタはほとんど覚えていないと言う。
夢のように断片的にしかもぼんやりとしか思い出せないのだそうだ。
何よりユウタが驚いていたのは自分が2週間、本を読み続けていたということだった。
当人には寝て起きた程度の時間間隔しかないらしいのだ。
マサコはふと老婆の言葉を思い出した。
(その子は夢を見てるだけじゃからさ)

バスに揺られながら老婆は上機嫌だった。
「ようやく後継者が見つかったわい。夢蛾夢虫に憑かれるということは夢と現を行き来できるということじゃからな。夢の中では流れる時の早さが違うとは言え、400年は長かったのう。わしもやっと引退じゃわ」
老婆はバスの外を眺めて目を細
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パシッ。
「コラ。食事中くらい本を読むのやめなさいって何度言ったらわかるの。言ってわからないなら対応を考えなきゃね」
僕から本を取り上げた母の目は鬼のように吊り上がっていた。
これから起こることを想像して、僕は身震いした。
ああ、夢ならいいのに。

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