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如月朔
2022年3月29日 23:39
---④七月七日、いつもの待ち合わせ場所である駅前の時計塔に、生真面目な彼女には珍しく少し遅れてやってきた。身に纏う純白のワンピースとは対照的にその表情は暗く曇り、抑えた感情が今にも溢れ出すのを必死に堪えているように見えた。私は、自身の脳裏に過った考えに胸が苦しくなったが、次の瞬間に彼女が発した言葉によって、その考えは杞憂に終わった。「おばあさまが……おばあさまが倒れたの」数日前の
2022年3月27日 22:38
---③「この川の水はやがて東京へ流れて、そして海へと還ってゆくんだ」私が発した言葉に、彼女はつばの大きな麦わら帽子が飛ばされないように片手で押さえながら頷いた。「あの東京と繋がっているなんて信じられない程ここの空気は澄んでいるわね」 そう言われて私は深く息を吸った。土の匂い。水の匂い。木の匂い。それから彼女の匂い。初めて出会った春よりも近い、甘い匂い。そして、……夏の風の底
2022年3月23日 19:14
第一章---①山の頂にわずかに冠雪の残る春の日、彼女は高層ビルの建ち並ぶ街を幾つも越えて、私の住む片田舎へ静養にやってきた。まだ若かった私は、絹のように白く、ガラス細工のように繊細な彼女にたちまち夢中になった。思い描く理想に限りなく近い彼女の造形が、私の心を強く刺激したのだった。久しく忘れていた、消えかけていた感情の脈動を確かに感じた。当時、私は制作に若干の行き詰まりを感じており、理想
2022年3月22日 20:54
ープロローグー忘れるという作業は私にとって実に容易で難しい。今もぼんやりと書棚の前に立っているが、一体どの本を探しに来たのか思い出せない。それにも関わらず、隣の寝室から聞こえてくるモルダウの流麗な調べが、鍵盤によって紡ぎだされる柔らかな音色が、この耳に入る度に私の脳は官能的な刺激に浸る。完全なものはそこに存在して当たり前のものとなるため、時としてその存在を忘れ得る。しかし、それは記憶の