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【短編小説】ドライフラワー③(第一章)

---③
「この川の水はやがて東京へ流れて、そして海へと還ってゆくんだ」
私が発した言葉に、彼女はつばの大きな麦わら帽子が飛ばされないように片手で押さえながら頷いた。
「あの東京と繋がっているなんて信じられない程ここの空気は澄んでいるわね」
 そう言われて私は深く息を吸った。
土の匂い。
水の匂い。
木の匂い。
それから彼女の匂い。
初めて出会った春よりも近い、甘い匂い。
そして、
……夏の風の底でほのかに薫る何かが朽ちてゆくような甘美な匂い……
私はそれらの匂いを堪能して、ゆっくりと返事をする。
「本当にそうだね」

風に吹かれて波立った水面に陽光が反射して無数の魚の群れのように見えた。
彼女は目を細めて水面を見つめている。
その横顔はどこか作り物めいて見える程に整っていて、長い睫毛が描く緩やかな曲線は芸術的ですらあった。
私はその光景をしっかりと目に焼き付ける。
そして心の内で密かに計算する。
理想的な瞳の形と睫毛の長さ、眉や鼻との位置関係を。
「そんなに見ないで。恥ずかしいわ」
「絵になるなと思って」
彼女は頬を少し赤らめて、私の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「あなたの瞳はすごく明るい茶色なのね。少しだけ緑ががっているようにも見えるし、なんだか吸い込まれてしまいそうな不思議な色だわ」
「昔から色素が薄いんだ。最近になって瞳の色はますます明るくなっているような気がするけどね」
彼女少し前屈みになって興味深げに私の目を見つめていた。

「今何時かしら」
はっとしたように彼女は目を大きく見開いて言う。
髪が風になびいて胸元がわずかに露わになる。以前よりも痩せた彼女の身体はその身を包む服との間にやや大きな隔たりを生んでいた。
「もうすぐ三時になるね」
私は彼女の胸元から必死に目を逸らし、腕時計を確認して言った。
「大変、おばあさまの家に戻らないと」
「そうか、じゃあ家まで送るよ」
彼女の白い肌に浮かぶ薄紫色の痣は私の気持ちを狂おしい程に掻き乱した。

車は道路の凹凸に合わせて度々小さく弾んだ。
「こっちに来てから私、あなたに色んな所に連れて行ってもらってるわね」
助手席の窓を開けながら彼女が言う。
「あんまり連れ回して体調が悪化したりしないといいけど」
「そんなことないわ。初めて見るものばかりでとても新鮮なのよ。でもおばあさまには内緒ね」
悪戯っぽい表情を作って彼女はコロコロと笑った。
そんな彼女を見ると、先日までの自分の考えはまるっきり的外れなのではないかとも思ったりするのだ。
本当は彼女はこの土地での療養が順調に進んでいて、快復に向かっているのではないかと。
「これからももっと色んな所に行って、色んなものを見よう」
自分の口からこんなにもチープでつまらない科白が出たことに驚いたし、気恥ずかしさも覚えた。
しかし、一方で彼女とのこれからを約束するにあたって、これ以上の言葉も私には見付からなかった。
間の悪さを取り繕うように私は言葉を続ける。
「じき七夕だろう。星を見に行こう。東京の空じゃ天の川は見えないだろう?」
「本当に。嬉しい。東京では星だってそんなに多くは見えないもの」
心底嬉しそうにはしゃぐ彼女を見ることで、私の心はにわかに平静を取り戻すのだった。
時折、木立ちの間を駆け抜けてゆく車のタイヤに踏み潰された木の枝がパキッと高い音を立てて弾けた。

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