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【短編小説】ドライフラワー④(第一章)

---④
七月七日、いつもの待ち合わせ場所である駅前の時計塔に、生真面目な彼女には珍しく少し遅れてやってきた。

身に纏う純白のワンピースとは対照的にその表情は暗く曇り、抑えた感情が今にも溢れ出すのを必死に堪えているように見えた。

私は、自身の脳裏に過った考えに胸が苦しくなったが、次の瞬間に彼女が発した言葉によって、その考えは杞憂に終わった。

「おばあさまが……おばあさまが倒れたの」
数日前のことだった。
彼女が散歩から戻ると台所で祖母が倒れていたのだそうだ。
脳の血管が破裂して、今も意識が戻らないのだという。

「そんな……病院を空けて大丈夫なのかい?」
「意識もないし、私がいても何も出来ることはないから。それに東京からお母さまも来ているし……」
彼女に対して掛けるべき言葉が見付からず、私はただ木偶の如く彼女の前に立ち竦むより他になかった。

彼女は瞳を潤ませて私の顔を見た。
その表情は数秒、厳密には一秒に満たなかったかも知れないが、私の心を捉えるのには充分であった。
おずおずと、しかし、強かに私は、彼女の細い身体を自身の胸元に引き寄せた。
こんな状況でも私は直接伝わってくる彼女の生きた体温に興奮を覚えていた。

「ありがとう」
彼女は私の胸に顔を埋めて言った。
「ごめん」
何故だかはわからない。無意識に口をついて出た言葉だった。

車へと場所を移し、彼女が落ち着くまで私は黙って彼女の手を握っていた。
「ねえ、約束通り星を見に行きましょう」
囁くように発せられた彼女の声は気丈に振る舞おうとする少女の強がりを孕んで私の鼓膜を震わせた。
「でも……」
「いいの。星が見たいの」
彼女の祖母のことを考えると、私は彼女の意見に賛同しかねた。
「私ね、わがまま娘だから。お母さまにもよく言われたわ」
そう言って真っ赤な目を無理矢理に細めて作った笑顔は、途端に夜の闇に呑まれてふつりと消えた。

車はライトを上目にしてサスペンションを軋ませながら林道を進んでゆく。
わずかに開けられた窓から流れ込んでくる外気が車内に満ちて、夜の湿気を帯びた森の匂いを私に伝える。
昼間に蓄えた温もりを、森は白く立ち込める霧として空へ返した。

小高い丘の上に出ると森が急に拓けて、視界全面にダークブルーの空が広がる。
空は中空にロマンスグレーの豊かな髪を揺蕩わせている。
サイドブレーキを引いて車のヘッドライトを消灯すると、辺りには太陽の光を反射して淡く光る半月と星の光だけが煌々と輝いていた。
「ほら、あれが天の川だよ」
丘の突端まで歩き、空の、その美しい髪を指さして私は言った。
「すごい。どれ、どれが織姫と彦星なの」
「あの一際明るい星が織姫で、川を隔てて、その右下にある……ほら、あれが彦星だよ」

彼女は私の指の示す先を必死に見つめている。
私はその美しい横顔をひそかに視界の端に収める。
風が止み、虫も鳴かぬ、時間さえも止まったのではないかと思う程の静寂。
その静寂を彼女が澄みきった声で引き裂いた。
「私、東京に戻らなければならないの。おばあさまも私と暮らすことは出来なくなってしまったから……」
私はその言葉をある程度予測していたが、それでもやはり飲み込むまでには多少の時間を要した。

「そうか」
小さく呟くと私はまばらな緑が地面を覆う足下に寝転んだ。
……星が流れたなら良いのに……
そうすれば私はすぐに星に願いを懸けただろう……君を、このまま……

どれくらいの時間そうしていただろう。
ただ空を見上げたまま、私はぼんやりと彼女の言葉を頭の中で反芻していた。
「綺麗ね。この沢山の星たちは今も燃えているのかしら。……それとも」
私には彼女の言葉の意味するところが理解出来た。
そして切なくなった。
苦しくなった。
それと同時に二人で川を眺めている時にははっきりとしなかった焦燥の理由が自明のものとなった。

「一緒に暮らそう」
考えた末に出てきた言葉ではなかった。
それはあまりにも自然で淀みなく、空から聞こえてきたのではないかと自分自身が錯覚する程だった。
「そんな……急に言われても」
「大丈夫。川と同じ、続くべき場所に続いているさ」
私の言葉に彼女はゆっくりと頷いた。
私にはもう少しだけ彼女との時間が必要だったし、それは彼女にとっても同じことだった。
「二人で暮らすのね……」
私の言葉の意味を改めて確かめるような口調で彼女は言った。
彼女の手を握るべきなのか、口づけすべきなのか、私は戸惑ったが、そのどちらも必要ないのだと気付いた。
もう彼女はある意味では私の一部だった。
互いに重なり合う部分、あるいは感情の融け合う部分が存在することは明白だった。
また、私の感情と融和することで、その完全性が今後も保たれるであろうことを私はこのとき悟った。

私は立ち上がると、月明かりに照らされて青白く染まった彼女のワンピースの袖を引いた。
驚く程清涼な月の影に包まれて二人はゆっくりと歩調を重ねた。

車は林道のさらに奥へ。人里から離れた私の邸へと向かってゆく。

「さあ、中へ。入って」
扉を開けて彼女を邸の中へと促す。
彼女は雲に乗るかのようにふわりと、廊下に敷かれた赤い絨毯を踏んだ。
扉が音を立てて閉じる。
私は後ろから彼女を抱きしめた。
耳に、そして首筋にそっと口づける。
細い肩に触れ、そっと背中から手を入れてワンピースを下ろしてゆく。
雪よりもなお白い彼女の背中には所々、薄紫色の紫陽花の花が咲いている。
彼女の儚さを主張するかのように。
「恥ずかしがらないで」
彼女は手で身体を隠しながらも、その唇は私を受け入れた。
窓から差し込むわずかな光を頼りに私は、白く、青い、そしてわずかに赤みを帯びた彼女を寝室へと導いた。

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