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マヨヒガ 【ホラー小説】

突然の豪雨に見舞われた私たちは、必死になってダム湖に沿って曲がりくねる山道を軽自動車で駆け抜けていた。
左側にはひたひたと大量に水を湛えたダム湖があり、その湖面は雨で流れ出た泥水でまだら模様の焦茶色に染まっている。右側にはごつごつとした岩肌の崖が迫っており、ときおり雨の勢いで折れたと思われる木の枝や小石が転がり落ちてくる。
車一台がやっと通れるくらいの荒れた道を一心不乱に走り続ける。
出来うる限りのスピードで走っており、仮に今カーブの先から対向車が来ようものなら正面衝突は避けられないだろう。

ハンドルを握る私は必死になってカーブミラ―の先を見据えながら運転を続ける。隣に座る彼氏は運転免許を持っておらず、シートベルトを握りしめながら緊張で青ざめた顔で押し黙っている。


ダムを見に行きたい、と言い出したのは彼の方だった。

なんでもダムカード、というものがあるらしく、ネットでたまたまそれを見かけた彼が、一度現物を見てみたくなったのだそうだ。

「えー、ダムなんて遠いじゃない、運転するのは私の方なんだよ」
「だって俺免許持ってねーもん」

都会育ちの彼は今まで一度も運転免許を持ったことがなく、一方で地方都市出身の私は18歳で運転免許を取得していた。
旅行の時は公共交通手段がメインではあったけど、それが乏しい場所に出かけるときには私の軽自動車で出かける必要がある。
夜遅く帰ってくるときなどは眠い目をこすりながら私が運転する中、彼は助手席で気楽そうに寝ていたりする。なので私にとってみれば自動車での遠出はなるべく避けたいところだった。

しかしこの時は異様なまでに強硬に彼が出かけることを主張したため、
結局私は押し切られてしまい週末にそのダムまで出かけることになったのだ。

道中の慣れない山道に苦労してしまい、ダムに到着したのはすでに午後2時を回ろうかという時間だった。

お決まりのようにダムの縁からはるか下を流れる川を覗き込んだのち、管理事務所で彼は念願のダムカードを手に入れた。
さぞかし喜ぶのだろうとおもいきや、現物は彼の予想よりも貧相だったらしく、こんなもんかとあっさりとそれをダムの縁から捨ててしまった。

「ちょっと、せっかく私が運転してここまで来たんだから、そういう態度はどうなの」
「しょーがねーじゃん、実際ショボかったんだし」
「それにしたって、せめて家まで持って帰るくらいしなさいよ」
「なんだよ、いちいちうるせーな」

運転の疲れもあってかついとげとげしい口調になってしまったのが悪かったのだろうか、彼はすぐにへそを曲げてしまい、すっかり険悪なムードとなってしまった。

いきなり土砂降りの雨が降り出したのはその時だった。それまで薄曇りの天気だったのは確かなのだが、それにしてもまさにバケツをひっくり返したような雨が突然私たちを襲った。

慌てて車に駆け込み、もはや用の済んだダムを後にして元来た道を戻り始めたのだが、予想以上に雨の勢いが激しく、ダム湖の脇を走行している間にも雨量は見る間に増えてくる。ワイパーを全開にしてもフロントウィンドウをたたく雨は滝のようになっており、前方を視認することも困難だった。
後から考えればダムの職員もいるわけなので、そのままダムに避難していればよかったと思うのが、後の祭りだ。

一応は舗装された道を通っているはずなのだが、流れ来る土砂で舗装されているのかも分からない状況となっていた。

いよいよ雨足はひどくなり、もはや運転するのも困難になってきたとき、いきなり視界が開け、広場のような場所に出た。
行きにはこんな場所を見た覚えはなく、途中で道を間違えたのかもしれない。引き返そうかと広場の途中で停車したとき、山側の奥まったところに古民家のような建物が見えた。よく見ると手前に古びた木の看板が立っており、「民芸・伝承博物館」と書かれている。

「おい、いまさら来た道戻るのもシャクだから、雨が落ち着くまであそこで時間つぶそうぜ」

彼氏が提案してくる。こんな日にそもそも開館しているのか不安だったが、古い建物があるということはこの場所は比較的安全な場所だとも言えると考え、その建物に寄ることにした。

車を降り、上着を頭からかぶりながら建物の軒下へ駆け込む。

建付けが悪く、古めかしい引き戸を開けると、広々とした土間だった。
古い家に見られるように玄関の上がり框はかなり高くなっており、椅子くらいの高さだった。わずかの間にずいぶんと濡れそぼった上着を絞っていると、座敷へと繋がる障子戸を開けておばあさんが一人現れた。

「おや、こんな天気の日にご苦労さんですこと」
「すいません、ここ、今日はお休みでしたか」
「いいえ、やっておりますよ。まあこんな雨ですから、とりあえずどうぞおあがり下さい」

おばあさんの言葉に甘え、私たちは上がり框を乗り越えて座敷の中へと入る。いちおう中は博物館の体となっており、広めの座敷のあちこちに古い農機具が展示してあった。農機具からなのか、建物そのものからなのか、座敷はどことなく黴びたような臭いを纏っている。

「せっかくですから簡単にご案内でもさせていただきましょうかね。こちらがむかぁし稲の脱穀に使った器具ですよ」

おばあさんはこちらの話も聞かずに展示物の説明を始める。
別に興味はなかったけれど、どうせ雨がやむまではここから出られない。
私はおとなしくおばあさんの話に耳を傾けていた。
彼の方を見ると全く興味のない様子で話も聞かずにきょろきょろと部屋の中を見回している。すると、彼はわずかに隙間の空いていた奥の間へと続く襖の内側を覗き込んで何か見つけたようだった。
彼がおばあさんに問いかける。

「なあ、ばあさん。奥にあるあのでかい木の道具は何に使うもんなんだ?」

おばあさんは一瞬だけ黙りはしたものの、彼の問いかけを聞き流し、別の展示物の説明を始める。

「なんだよ、聞こえてねえのか。耳でも遠いのかよ」
「ちょっと、やめなさいよ。失礼でしょ」
「無視するババアが悪いんじゃねえか」

小声でたしなめる私に反発するかのように大きめの声で彼が答える。
おばあさんは聞こえているのかいないのか、二人で話し始めた私たちを見やると

「せっかくおいでくださったんですから、お茶でも入れましょうかね」

とつぶやいて土間の方へと戻っていった。そちらの方に台所でもあるのだろうか。おばあさんの姿が見えなくなると、彼が先ほどの襖を勝手に開けて中を覗き込みながら私を手招きする。

「おい、ちょっと見てみろよ。なんだろうな、これ」
「勝手に開けちゃまずいんじゃないの?」

言いながら私は彼の視線の先に目を凝らす。
奥の雨戸が閉まっているため部屋の中は暗がりとなっており良くは見えないものの、それは木製でかなりの大きさであり、部屋の中央にどっしりと据え置かれていた。重さで畳がわずかにたわんでいる。


「…なによ、これ」

私が見る限り、それはとても農機具とは思えない代物だった。
神社の鳥居のように天井まで届くほどの高さのある木枠があり、その木枠には下向きに分厚い鉄の刃がはめ込まれている。
刃の上部には縄が結わえ付けられており、刃が落ちないように縄の先は部屋の隅の柱に結び付けられていた。木枠の下の方には中央に丸く穴が開けられた留め具が据え付けられている。
それは、けっしてそう思いたくはなかったが、「斬首台」…いわゆるギロチンのように見えた。

「これも農機具なんかな?」

それがなんである分かっていない彼はぞっとするほど能天気に疑問符を浮かべている。

「ちょっと、勝手に見るのやめよう。お願いだから」

彼の手を取って元の座敷まで引っ張る。私のただならぬ様子を見て、彼もおとなしく襖を閉めて座敷に戻る。

「ねえ、気持ち悪いよ。もう出ようよ」
「そう言ったってな。雨まだ止んでねえしな」

彼に提案するが、どうにも反応が鈍い。
バチバチと周囲の木々を雨が激しく叩く音は建物の中にいても聞こえてくる。まだ雨は止まず、むしろ勢いを増しているようだった。
その時、ずずずずず、とどこか遠くで大きな重量のものが動く音がした。まさか土砂崩れ?

「ねえ、ほんとに出よ?ここにいても危なそうだし、まだ移動している方がましだと思うの」
「まあ、別にいいけどよ」

そう彼が言ったか言わないかの内に、私は彼の手を取って土間へ向かおうとする。そこへお盆に湯のみ茶碗を二つのせたおばあさんが戻ってきた。戻ってきてしまった。

「さあ、どうぞ温かいお茶ですよ。おあがり下さい」
「あの、おばあさん申し訳ないんですけど、私たちもう行きますね」
「はあ、外はひどい雨ですよ。ここにいた方がよろしんじゃないですか」
「いえ、ほんとにもう行きますんで」
「はあ、でしたらせめてお茶を一杯飲んでからどうぞ」

お茶を飲まない限りはここから出してくれない様子だった。無視して出ていくべきだとも思ったが、おばあさんは土間へと続く障子戸の前に陣取っており、無理やり押しのけるわけにもいかなかった。

「じゃあ、一杯だけ」

言って彼とそれぞれ茶碗を取ってお茶をひとくち口に含む。驚くほど苦かった。我慢して飲み下した瞬間に腹部に痛みが走り、ぶるぶると足が震えてくる。一刻も早くここを立ち去りたかったが、急な腹痛に耐えられそうにない。

「あの…すいません、お手洗いはどちらですか?」
「それならあちらですよ」

縁側へと続く障子戸を開け、おばあさんの示す方を見ると、奥まったところに木戸がある。

私は痛むお腹を押さえながら彼にごめん、ちょっと待ってて、と言うと木戸の先のお手洗いに籠る。驚いたことにくみ取り式だったが、この際どうでもいい。お腹を押さえながら用を済ませる。それで多少痛みも治まったので、備え付けられていた錆びかけた蛇口の水で手を洗い、元の座敷に戻る。


誰もいなかった。


彼の姿も、おばあさんの姿も見えなかった。たった十分ほどのわずかな時間だったはずなのに。
雨はもはや叩きつけるような音を伴い、建物を揺すっているかのように降り続けている。
その音にかき消されながらも、かすかにうめき声が聞こえてきた。

…彼が覗いていた、あの襖の奥の部屋からだった。

先ほどとは別の理由で足ががくがくと震えてくる。私はなにかに操られるように、襖をゆっくりと開ける。

彼がいた。斬首台に首を固定され、下を向いてぐったりとしている。
そして紐が結び付けられている柱のそばに、幽鬼のようにおばあさんが立っている。
手にはぼろぼろに錆びた出刃包丁。
それをゆっくりと縄に当て、こするように縄を切断し始める。包丁の動きに合わせて、縄がわずかずつではあるがぶちぶちと切れ始める。
その音に意識をとりもどした彼が自分の置かれた状態に気づいて留め具から首を外そうともがき始める。
しかし上手く力が入らないのか、留め具はがたがたと音を立てて揺れるだけだった。

「おい、待ってくれよ、助けてくれ、助けてくれよ」

私に気づいた彼は首を拘束され動けないまま顔だけをなんとかひねって呼びかけてくる。
助けなければと思うものの、その光景から目を離せずにがたがたと震えながら私は後ずさる。その間にも縄は徐々に細くなっていく。
とん、と土間へと続く障子戸に背中が触れた瞬間、私は勢い良く障子をあけて無我夢中で駆け出した。

建付けの悪い玄関の引き戸を無理やりこじ開ける。引き戸が開き、もはや滝のような雨の中に飛び出した時、建物の奥から、どん、という重いものが落ちる音が聞こえた。

私は必死になって軽自動車に乗り込むと、エンジンをかけ、アクセルをべた踏みにして発進しようとする。
アクセルを踏み込み過ぎてぬかるみの泥を巻き込んでしまい、車が上手く前に進まない。
それでもかまわずハンドルをがむしゃらに回しながら踏み込みつづけると、
さきほどよりも遥かに大きなどどどどどどどっ、という轟音と共に後ろから押されたように突然車が前に飛び出していく。

それは建物の裏手の山がついに大量の雨で崩壊して出来た土砂崩れだった。

土砂崩れが彼も、おばあさんも、建物も軽自動車もすべてを飲み込んで湖へとなだれ落ちてゆく。
私の意識はそこでぷっつりと途切れた。




気が付けば病院のベッドの上だった。

後から聞くところによると、土砂に押し流され、湖の崖っぷちに辛うじて引っかかっていた軽自動車をたまたまダムの職員が見つけ、職員総出で必死の思いで私を助け出してくれたのだという。

…彼は残念ながらダム湖の湖底から遺体で見つかったらしい。
土砂に押し流されひしゃげた遺体の首が、果たして胴体と繋がっていたのかどうかは聞いていない。


それから二十年以上経ち、記憶もおぼろげになってきた頃に改めてあの場所を尋ねようとしたものの、すべては土砂に押し流され、跡形もない状態となっていた。

あれは本当にあった出来事だったのだろうか。それとも生き埋めになりかけた私がつかの間に見た幻だったのだろうか。それはどうにもはっきりとせず、私の心の中に今でも澱のように漂っている。


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