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月は見えている?


『ねえ、そこから月は見えるかい?』

彼が通話機越しに尋ねてくる。
私は通話機を持ったまま、ベランダのドアをそっと開けて外に出る。
少し冷たい夜風を受けながら空を見上げると、そこにはぽっかりと丸い月が浮かんでいた。

「今日は雲もなくて、丸い月がよく見えるわ」
『そうか、こっちはタイミングが悪いのか、よく見えないよ。こちらの月はそっちより見やすいはずなんだけどね』

彼が寂しそうに笑う。通話機の向こうでどんな表情をしているか、離れていても私には手に取るように分かる。

「それは残念ね。いま見えている月をそちらにあげたい位だわ」
『ありがたいけど、たぶんこっちももう十分だと思うよ』

そう言って彼は再び笑う。その声はさきほどよりは少しだけ明るさを取り戻したように思えた。


しばしの沈黙。


私は彼が何か重大なことを言い出すのが、なぜか分かっていた。
いつもこちらが昼のタイミングで通話を繋げてくる彼が、今日に限って夜の遅い時間に連絡を取ってきた時点で、私はそんな予感がしていた。

『明日、最初の便で出発することになった』

悲しい予感が当たってしまったことに私は内心動揺していたが、努めて冷静を装って会話を続ける。

「…そうなの。ずいぶん急に決まるのね」
『準備に時間がかかってしまったからね。その分出発を急ぎたいみたいだ』
「…死に急ぐようなものじゃないの」
『その言い方はひどいな。これでも人類の希望を託されて出発することになっているんだよ』

そう。彼は今、人類の希望を託されて火星にいる。私と彼の距離はおよそ7,528万キロメートル。
私が見ているのは地球の衛星である月。
彼が見ているのは火星の衛星である二つの『月』、フォボスとダイモスのはずだ。


地球の海が原因不明のウイルスで汚染され、そのウイルスの駆除の見込みがたたないと分かった時、当初国際プロジェクトとして計画されていた外宇宙探索計画は一気に全世界の統一の目標となった。

もともとアメリカで民間宇宙飛行士の仕事をしていた彼は、当然そのメンバーに選定され、国家権限で強制的に第一陣のスタッフとして、火星に連れていかれた。

私もついて行きたかったが、ただの民間航空会社のフライトアテンダントでは参加する資格が認められなかった。

「あんなの、ただの棄民政策じゃないの」
『…会話の内容には気をつけたほうがいい。盗聴されているかもしれない』
「そうだとしても私は言ってやるわ。多くの人間を遠い宇宙に放り出すなんて、ばかげているって」

誰かに聞こえていても構いやしない。私はむしろこの計画を決めた人間に言ってやりたかった。誰が好き好んであるかどうかも分からない遠い星に放り出されることを望むのか。
彼は私の嘆きの言葉をしばらく黙って聞いていたが、やがて意を決したように話し出した。

『いいかい、よく聞いてくれ。この計画の実行メンバーに僕は強制的に選ばれたんじゃない。自分で志願したんだ』

私はその言葉の意味がしばらく理解できなかった。脳が言葉の意図することを解析してからも、出てきたのはただの疑問だった。

「どういうことなの。ねえ、なんで、どうしてよ!」
『すまない』

彼から返ってきたのは一言。謝罪の言葉だった。
私はそんなことを聞きたいんじゃない。なぜ私を置いてそこに行ってしまったのか、その理由を聞きたかった。

『理由はたぶん、説明できない』
「なんでよ、あんな無茶な計画、わざわざ死にに行くようなものだって、あなたも理解できているでしょう!?」
『それは分かっている。僕は本職の宇宙飛行士だよ?無謀さは誰よりも分かっているつもりだ』

それでもね、彼は静かに話し続ける。

『それでも、僕はここに来てみたかったんだ。君が悲しむことは分かっていたけれど、それでも僕は来たかった。そしてこれからさらに先へ一番乗りで進んでいく。それは誰もができることじゃない。
…たぶん、僕はどこかおかしいんだろう。全人類を巻き込んで、こんなバカげた計画を最前線で進めてしまった。…すまない』

私は何も答えられなかった。死ぬと分かっていて、それでも先へ進もうとする人間を誰が止められるのだろうか。
私には彼を止めることはできなかった。それだけがただただ悲しかった。

『…ああ、いまここからも月が見えたよ、地球の月だ。僕らは今、同じ月を見ているね』

それもきっとこの先見えなくなる。彼はさらに遠い所へ行ってしまう。

『その月を覚えていてくれ。僕らが一緒に見た最後の物体だ』

その月は涙で曇って濡れていた。私はベランダにしゃがみこんだまま、ただひたすら、頭上の月を目に焼き付けていた。


翌日、外宇宙探索船の第一陣が火星から出発したとのニュースが全世界を駆け巡った。私は空を見上げて月を探す。

どれだけ目を凝らしても、日の光に遮られて、もう月は見えなかった。

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