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アプロディーテーの泡


 ぐねぐねとうねるように動くその生き物は、人の肌のような色をしていた。見る角度によって様々にその色相を変えていき、ひと時たりとも同じ形状をしていないが、それゆえに見ていて飽きることがなかった。
 何より彼の心を惹きつけたのは、ときおりその形状がまるで裸婦像のように見えるときがあるからだった。
 それは奇妙に艶めかしく、まるでこちらを誘うように動き続ける。

 生物の分類としては二枚貝に分類されるだろう。見た目は帆立貝にかなり近い。上下に波打つ扇形の貝殻を持ち、その間に挟まるようにしていわゆる貝柱の部分がある。しかし一般的な帆立貝と明らかに異なる部分があり、それは貝柱部分を大きく広げていることだ。せっかくの貝殻に潜むことなく、本体をまるでこちらに見せつけるかのようにあからさまに剥き出しにしている。秘められるべき箇所を晒している様は滑稽であり、また妖艶でもあった。

 児島はたまたま波打ち際の岩場で半分ほど砂地に潜り込んでいるところを見つけたその貝を、部屋に置いてある水槽で飼うことにした。元々魚を飼うことが趣味のため、飼育環境には事欠かない。

 最適な環境は分からないが、岩場の環境を模した水槽があったためそこに入れることにした。同居人はハゼ類や小型のフグなどの小魚達だ。彼らは突然の闖入者に驚くこともなく、悠々と泳ぎ続けていた。あまりに無防備なために襲われるのではないかと危惧していたが、水槽に入れるとすっ、とその身を貝殻に隠し始めたのでそのままにしておいた。児島が用事のために暫く目を離していると、いつの間にかぴったりと貝殻を閉じている。

 ほっとして暫く水槽の様子を眺めていると、まるでこちらの視線に気がついたかのようにじわりじわりと再び殻を広げ始めた。
 徐々に身を開いていくそのさまは見ているこちらが気恥しくなるような焦らしぶりで、水槽の主役だった筈の魚達が彼女を引き立てる端役のようにも思えてくる。

 児島はすっかりこの貝を気に入ってしまった。

 異変が起こったのは翌日。

 朝になって目を覚ました児島はいつものように日課の餌やりをするために水槽の様子を伺うと、例の貝を沈めた水槽だけ、昨日まで元気に泳いでいた魚達が全て腹を上にして浮かんでいる。

 児島は慌ててサーモグラフを確認し、水槽の温度を確かめる。しかし温度は正常だった。水中酸素濃度を測ってみるがそれにも異常は見られない。ただ気になるのが水面に浮かぶ無数の泡だった。

 原因として考えられるのはやはり昨日入れた貝だった。
 よくよく見てみると貝柱と貝殻の隙間部分からぷくぷくと小さな泡が湧きだしている。加えて心なしか昨日より貝殻が大きくなっているかのようにも思えた。しかしたった一晩でここまでの状態になったとは俄かには信じられなかった。

 とはいえ児島は貝を捨てるつもりにはなれなかった。すっかりその貝に魅了されていたからだ。

 児島は死んだ魚を水槽から取り出すと丁寧にくるんで捨てる。
 もはや水槽に残っているのはただ一つの貝だけだ。

 その貝はまるでやっと邪魔者がいなくなったとでもいうように児島の前で再びその身を広げ始めた。児島は誘われるようにその肢体を見つめ続ける。

 その後も貝は信じられない速度で成長を続けた。貝が成長するのに合わせて児島は水槽のサイズをより大きな物へと取り換えていく。もはや憑り付かれたようにその貝のしもべとなった児島は貝の世話をし続ける。それはどんどんとエスカレートしていき、ついには水族館に設置されるような大型の水槽を専門業者に依頼して準備するまでになった。

 一抱えほどにもなった貝を真新しい水槽に沈め、児島はその前に立って貝を見つめる。貝はじわじわと焦らすように固く閉じられた貝殻をほどいてゆき、その中に隠された艶めかしい肢体を貝は児島に披露していく。完全に広がった状態の貝柱はすでに人の背丈ほどにもなっている。
 それはサンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』を水中に再現したかのようだった。


 ごくりと生唾を一つ飲み込んだ児島は、ゆっくりと水槽に近づき、縁に手をかけると力を込めて体を持ち上げ、自らの身を水槽の中に躍らせた。水の中で直接その肢体に触れる。児島が触れた箇所は恥じらうように身をよじる。それに構わず児島はさらに手を伸ばす。


 数分ののち、児島は恍惚の表情を浮かべながら水中で息絶えていた。


 彼の身体をまるで包みこむかのように貝からはぷくぷくと無数の小さな泡が絶えず湧き出し続けていた。


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