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【掌編小説】サクラサク

 人生の分かれ道に差しかかった時、どの道を選ぶのかということはとても重要だ。もし違う道を選んでいたら今どうしているんだろうかなんて、誰でも一度は考えた事があると思う。
 高校三年生の冬。それは人生の大きな分かれ道となる季節。もし僕があのとき、たまたまいつもと違う角を曲がっていなかったら、きっとこの出会いはなかったのだろう。

  最初は気のせいかと思った。それでも気になった僕は、自転車を道端に停めて耳をすませてみる。キャン、と小さな鳴き声が聞こえた。

  やっぱり気のせいじゃない。

 声は道路脇の用水路から聞こえてきていた。幅2m、深さは1mほどでコンクリートで舗装されている。今の時期はわずかに水が流れているだけだった。
 用水路を覗き込むと、そこには一匹の仔犬がいた。
 柴犬っぽく、毛は茶色で尻尾はくるりと背中の方に巻いていた。寒そうにハッハッと息を吐いている。仔犬は水路内を困ったように歩き回りながら、ときどき水路の壁に前足を伸ばすけれど、そいつの大きさではどう見ても抜け出すことは出来そうにない。誤って用水路に落ちてしまったのだろうか。
首輪がないから、飼い犬ではなさそうだ。
 ……わざわざ出られない深さの水路に捨てたとは思いたくないけれど、もしかしたら捨て犬なのかもしれない、という考えが頭をよぎる。どちらにしても放っておく訳にはいかない。
 僕は意を決して用水路に降りた。足をつけるとスニーカーをすり抜けて冷たい水がじわりと染みこんでくる。

「うわ、冷たっ」

 思わず声を上げてしまう。こんな冷たい水に浸かっていたらあっという間に体力が無くなってしまうだろう。

「ほら、大丈夫だから。ここから出してあげるよ」

 怯えないようになるべく優しく言葉をかけながら手を伸ばす。逃げ回るかと思いきや、大人しく仔犬は僕の手の中に収まった。想像以上にその体は冷たく、ぶるぶると小刻みに震えていて、不安そうに視線を彷徨わせている。僕は仔犬を抱きかかえながら自転車の所まで戻り、リュックから取り出したハンドタオルで仔犬をくるんでカゴに入れて急いで家へと帰った。

 タオルないかな? という僕の言葉に母親が台所から顔を出す。

「どうしたの、その仔犬」
「そこの用水路に落ちてた。出られなさそうだったから連れてきたんだけど、とりあえずタオルある?」
「ちょっと温めてくるから待ってなさい」

 温かいタオルで仔犬の体を拭いてやる。すっかり安心したのか、仔犬は大人しく身体を拭かれている。物置にあった段ボール箱を組み立てて、タオルごと仔犬を入れる。そこへ母親がミルクをトレイに入れてもってきた。

「人肌に温めたけど、飲むかしら」

 トレイを置くと、仔犬はすぐにミルクをピチャピチャと飲み始めた。
お腹は空いていたらしい。

 家族全員すっかり愛着が湧いたのか、その日の家族会議であっさり飼育許可が下りた。報告ついでに段ボール箱を見に行くと、爪か牙で引っ掻いたのだろう、真横に穴が空いていて中はもぬけの殻だった。

「あれ、もしかして逃げちゃったか……」

 寂しくはあったけど無事に用水路から脱出できたのだからそれでいいか、と自分を納得させることにして、穴の空いた段ボールは翌日片付けることにした。

 翌日の帰り道、また用水路に落ちてしまっていないかと確認しながら家まで帰る。仔犬の姿は見えなかった。
 さて箱を片付けるかと覗き込むと———中には昨日の仔犬が当たり前のように座っていた。
 こちらを見上げて嬉しそうにキャン! と鳴く。

「お前、戻ってきちゃったのかよ」

 帰巣本能を発揮するにはちょっと早くない? と思いながらもミルクと餌をあげてやる。

 その日の夜は再び家族会議。議題は仔犬の名前だった。

「あんたが拾ってきたんだから、自分でつけたらいいわよ」

 母親に促されて、思い浮かんだのは「さくら」という名前だった。「へえ、なんで?」との問いかけに「ほら、あいつ茶色いし、さくらご飯みたいじゃない?」と答える。さくらご飯は醤油とお酒でご飯を炊き込んだ料理で、僕の好物でもある。仔犬の名前はそのまま「さくら」となった。

「じゃあ、今日からお前の名前はさくらだからな」

 両手で仔犬を抱きかかえてそう告げる。

(本当は受験生だし、サクラサク、にちなんでなんだけどな)
 恥ずかしいので本当の由来は誰にも言わなかった。

「僕は受験生だし、春になって大学生になれば家を出るつもりだからな。お前といられるのもあとちょっとだけど、良い子にするんだぞ」

 分かっているのかどうなのか、僕の腕の中で仔犬はぶんぶんと元気よく尻尾を振り続けていた。ところが僕は受験に落ちて浪人生となり、さくらとはもう少しだけ一緒にいることになった。寂しがったさくらがそう願ったのかは分からないけど、少なくとも僕のことは恩人と認識していたらしく、遠く離れてしまっていても一番懐いている相手は僕だった。

 春が来て、桜を見るたびに僕はそのことを思い出す。

 僕が大好きだった、犬の話。


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