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「彼女の傘のゆくえ」~江戸傘張り恋慕情~

傘を広げたのは、ぽたぽた、と雨の音が聞こえたからだ。

しかし傘を広げたところでお清(きよ)が目にしたのは、何の拍子にか先の所の油紙が破けてしまっており、最早その傘が役目を果たさなくなった、という事実だった。

「ああ、なんてこと。せっかく善次郎様が仕立てたものなのに」

しかし傘張りの腕も名高かった青山の善次郎はもうこの町にはいない。
ある日突然、お清の父親の清兵衛が営む長屋から忽然と姿を消していた。

家財道具は軒並み引き払われており、ほとんどが仕立て途中で古骨が剥き出しの傘の中、お清が今手にしている目も覚めるような真っ赤な蛇の目傘一本だけがまるで置き土産のように残されていた。お清の父の清兵衛は善次郎の突然の失踪に悪態を吐きつつも、内心は胸を撫でおろしていた。

善次郎がお清と通じ合っているのは清兵衛も勘づいていた。

目端の利く清兵衛は常に長屋の住人の動向には目を光らせている。
いくら人目を忍んで善次郎とお清が密通をしていても、清兵衛とお清は一つ屋根の下に住んでいるのだ。長屋の事ですら全ての部屋の天井の木目の数まで知って居ると言われる清兵衛が気づかないはずはないのだが、流石の清兵衛もいざ可愛い我が娘の事となるとお清本人には強く問い詰められずにいた。彼女の母親である清兵衛の妻は産後の肥立ちが悪くお清を産んだすぐ後に亡くなっており、それ以来清兵衛にとってお清は目に入れても痛くないほどの可愛い娘だった。

しかしお清にはさる大店の跡取り息子との縁談がお清の知らぬ間に陰で持ち上がっていたのだ。いずれお清にはそのことを伝えればならぬ。しかし妙な所は父に似て一度こうと決めたら譲らないのがお清だった。
下手に話をすれば善次郎と共に出奔しかねず、清兵衛も禿頭をさすりさすり頭を悩ませていた所。善次郎の失踪は清兵衛にとって願ったり叶ったりの出来事だった。

「さて真面目そうに見えて突然居なくなるとはふてえ野郎だ。ふん、傘張りだけは一丁前だったが、お侍と威張ってはいても所詮この程度の男だったか」

後始末のため、善次郎の居た部屋に踏み込んだ清兵衛はそう言いながら赤い蛇の目傘を手に取った。
その時、部屋の入り口から飛び込んできたお清が目尻を吊り上げながら奪うようにして清兵衛から蛇の目傘を引っ手繰った。

「おいこら、お清、何しやがる!金目になりそうなもんはそれだけなんだ、売っぱらって取りっぱぐれた長屋の賃料の足しにするんだから返しやがれ!」
「真っ平御免です、これはあたしの為の傘なんだ」

ぎゅっ、とまるでそれが善次郎そのもので在るかのように傘を抱きしめたお清の瞳には、ちらりと光るものが見えた。

***

江戸城下、青山百人町(現在の港区青山)で甲賀藩の御家人として勤めていた善次郎だったが、永らく続いた太平の世の中は武士からその本分を奪い去ってしまい、御家人と言えど江戸で暮らすには少なすぎる俸給のために、傘張り職人として身を立てていた。

元禄のあたりから江戸でも竹と油紙を使った傘の製造が本格的に始まってはいたが、その価格は庶民に手が出るようなものではなく、古くなって紙が破けた傘を「古骨買い」として買いつけて、新しい油紙を張って今で言うリサイクル品として売る商売がいわゆる「傘張り」だった。
善次郎に限らず当時の御家人たちは副業として傘張りをはじめとして障子貼りや小間物売り、町道場の師範など何でもやって生計を立てていた。

中でもここ青山百人町に居住する甲賀衆には熟練者が多く、江戸市中でも評判となっており、善次郎の手技も先達から手倣ったものである。

それは後世にも引き継がれており、明治7年(1874)に発刊の『大和道しるべ』東京の部には、「青山から麻布の辺にかけて傘を作るもの甚だ多し。故に空地ある所には、これを乾かすさま、秋雨 雨後の菌(きのこ)の如し……」とあり、今の北青山地帯は「傘町」と呼ばれていて、近辺も合わせると全国7割超の傘の一大生産地であった。

さて善次郎とお清は清兵衛が感づいた通り、お互いに好き合う仲となっていた。どこかその佇まいに陰を湛えた善次郎は、人によっては陰気と称される類いの見目であったのだが、お清にはそれが堪らなく魅力的に思えたのだ。
事あるごとに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるお清にいつしか善次郎も心惹かれていた。

そんなある日、清兵衛と共に浅草まで物見遊山に出かけたお清が、その日の夕刻にこっそりと善次郎の長屋までやってきた。
そっと入り口の戸を開けて中に入ってから後手で戸を閉めると、傘張り仕事に勤しんでいる善次郎の様子をもじもじとしながら見つめている。善次郎は傘の骨に糊を塗る作業の手を止めて戸口に近づき、お清に声をかけた。

「お清殿、先刻からずっと戸口に立ってらっしゃるが、一体如何なされたのかね」
「……いえ、今日はあたし浅草まで出掛けたんですけども、そこで善次郎様にお土産を一つ買いまして」
「なんと勿体ない、しからばそれを見せて下さらぬか」
「でもお気に召すか分からなくて……」
「そのような事を申されるな。お清殿が選んだものであれば何であれ拙者は嬉しいのですよ」
「では……」

そう言ってお清が善次郎に差し出してきたのは小さな張り子の傘だった。
真っ赤な蛇の目傘を模したそれは、お清の手の平に収まるほど小さいものだが、まるで本物の様に精巧に出来ていた。
破顔しながら善次郎はそれを手の中で転がす。お清の手でも小さく見えたそれは、善次郎の武骨な手の中ではより一層小さく見えた。

「これは何と可愛らしい。まるでお清殿のような傘ですね」
「そんな、恥ずかしい。傘作りが上手な善次郎様に傘を差し上げるのもどうかと思ったのですが、でもこれを見たら善次郎様の事を思い出しまして」

恥ずかし気に頬を染め、腰の前で手を擦り合わせながらお清は善次郎を見つめる。その様子は外で見るお清の態度とは全く違って、善次郎にだけ見せる彼女の特別な姿だった。善次郎はその小さな傘をこの部屋にある最も上等な油紙で優しく包むと、丁寧に懐に仕舞いこむ。
そしてお清を優しく手招いた。

「お清殿、戸口にずっと立たれていては流石に冷えるでしょう。傘だらけの部屋で誠に申し訳ないが、こちらに来て温まりませんか」
「はい。では……」

おずおずと履物を脱いで上がり、善次郎に近づくお清。
長屋の中は外と変わらぬ寒さであったが、そっと抱き合う二人の心は芯に火が灯ったかのように暖かかった。

***

善次郎が甲賀衆の中でも腕利きの忍びの一族であったことは藩中の者でも一部しか知らない極秘の事だった。
忍びと言えど、世の習いには勝てぬ。
長きに渡る平和な時代は忍びの刃も鈍らせてしまうほどに生温いものであったが、しかし争いの種が尽きぬのもまた人の世である。町人の振りをした伝令が国元からの急な知らせを丑三つ時にひっそりと届けてきたのは突然の事であった。
曰く、当主の弟君に謀反の気配あり、善次郎ほか忍び衆は至急国元に馳せ参じよ。このまま江戸での生活が続くものと願っていた善次郎にとって彼の者は冥府からの使者のようであった。
命に従えばこのまま何も言わず、誰にも告げずに甲賀に帰らなければならない。嘆き悲しむお清の顔がありありと瞼の裏に浮かぶ。だが命に背けば国元の親族の命の保証はない。そのような仕え方を続けてきたのが善次郎の一族だった。

「……確かに承った。朝には此処を発つ」

善次郎の返答に伝令は無言で頷くと、現れた時のように音もなく静かに去っていった。善次郎は全てを吐き出すかのように大きく息をつくと、出立の準備もそこそこに古骨が剥き出しの傘を一つ手に取って、手慣れた作業に取り掛かった。

まだ夜も明けきらぬうちに長屋から姿を消した善次郎が残した一本の蛇の目傘は、お清がくれた張り子の傘と瓜二つの一品であった。

***

襲撃は順調に進んだ。
予てよりの情報通りに謀反を企てていた当主の弟は、突然屋敷に現れた黒装束の一団に家来の者共含めて大した反撃も出来ずに敢無く暗殺された。
予定通りに滞りなく任務をこなした一団の中に善次郎も居た。しかし覆面の下のその表情は晴れなかった。

(……おかしい。呆気なさ過ぎる。これならば国元の者共だけで十分対処出来たはずではないか)

善次郎の懸念の通り、当主の手の者と落ち合う筈だった山中に現れたのは無数の銃口を構えた完全武装の侍の一団であった。
黒装束の一団の一人が叫ぶ。

「何故我らに銃を向けるか!任務は依頼通りにこなして参ったぞ!」

彼らを取り囲む侍の一団から、指揮の者であろう一人が静かに答える。

「それはご苦労。しかし貴様らにももう用は無い。時代が変わったのだ。将軍様の膝元に貴様らのような集団を置いておくわけにはいかなくなった」
「なんだと……!」

黒装束たちが刀を抜く暇も無く、一斉に銃口が火を噴いた。
為す術もなく一人、また一人と弾に撃ち抜かれ、槍で突かれ、刀で切り伏せられて黒装束の集団は命を散らしていく。
善次郎も鬼の形相で刀を振るい、侍の集団に立ち向かったが、背後から二人に切りかかられて受けた刀傷は肋骨を折り、肺腑に達する深手だった。

血煙に塗れたいくさ場が静かになるのに、そう時間はかからなかった。

黒装束の一団は一人として立つものはなく、善次郎も最早ひゅうひゅうと掠れる息を虚しく吐き出すのみ。
その懐にお清がくれたあの張り子の傘を忍ばせていたことを知るものは、当然ながらこのいくさ場には誰一人として居なかった。

侍の一団が去った後。
死骸を漁る鴉が鳴き喚き、しとしとと小雨が降りしきる中、たった今息を引き取ったばかりの男達の身体からはうっすらと湯気が立ち上っている。
それは浄土に昇る彼らの魂魄でもあるのだろうか。

善次郎の亡骸の傍らにはまるでしとつく雨を受けるかのように、張り子の傘が一つ、荒れ地に咲く曼珠沙華のように赤い花を咲かせていた。

***

どれだけ時が経とうが、お清は善次郎が江戸に帰ってくるまでひたすら待つつもりでいる。例えどれほど赤い蛇の目傘が襤褸になろうとも、それは善次郎とお清を繋ぐ「よすが」であるのだ。
縁談の話が舞い込むたびにもの言いたげな目でお清を見つめる清兵衛に対して、お清の返しはいつもこうだ。

「あの傘、返さないから。絶対に」

<了>


こちらの企画に参加させていただきました。

……はい。何故か時代物となってしまいました。
普段と雰囲気が異なるかと思いますが、以前にも時代物は書かせていただいております。お気に召しましたらこちらも是非。


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