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二人分のチケット


看板を眺めていたら、声をかけられた。

「良かったら、チケットが余っているのでいかがですか?」

僕が振り向くと、車椅子に乗った年配の女性と、その後ろで車椅子を介助している若い女性が立っていた。
声をかけてきたのは年配の女性の方だった。
穏やかながらも凛とした声で、車椅子に座ってはいるけれど、背筋はピンと伸びていて気品が漂っている。

「僕の事ですか?」
「ええ、あなた、先ほどからその看板をじっと見ていましたでしょう。その展覧会を見たいのかと思いまして」

ここは東京の上野公園で、僕が見ていたのは国立西洋美術館で開催中のルーベンス展の立て看板だった。
そこまで熱心に見ていたつもりはなかったのだけど、声をかけられるまで後ろに人がいるのに気がついていなかったのは確かだ。

「いや、でも、よろしいんですか?」
「ええ。招待券なので遠慮しないでください。一度見ようとは思ったのですけど、今日は人が多すぎて、待ち時間も長いですし諦めたんです」

ちらりと美術館の方に目をやると、確かに敷地一杯に列が出来ている。会期が明日までだから、おそらく駆け込みのお客が詰めかけているのだろう。確かに車椅子であの行列に並ぶのは大変そうだ。僕は素直に好意を受け取ることにした。

「わかりました。どうもありがとうございます」

僕は頭を下げてお礼を言い、差し出されたチケットを受け取る。

「私の分まで楽しんできてくださいね」

年配の女性がにこやかに言い、それを合図に若い女性がぺこりとこちらに会釈をしながら車椅子を押して去っていく。
僕の手元には一枚のチケット。確かに「招待券」と書いてある。
僕はそれを握りしめて列の最後尾に並ぶ。
館内に入るまで1時間くらいかかったろうか。人波に流されながらようやくペラ一枚の解説パンフを入手し、展示室に入る。
当然、展示室の中も人でごった返していた。
展示物の前に人が列をなしており、じわじわと低速のベルトコンベアーのように流れながら展示とキャプションを眺めている。

僕はその列に並ぶことを早々に諦めた。キャプションが見られないけれど、展示作品の作品名は手元のパンフで確認できる。
普段だったら列に並んで流れ作業で展示品を見ていくこともするのだけど、今日はそれをする気になれなかった。

このチケットは、僕とあの年配の女性、二人分のチケットだ。
流れ作業で作品を鑑賞するのがどうにも憚られた。

僕は列から離れて、一つ一つの作品を自分のペースで鑑賞していく。作品のキャプションは見られないから、鑑賞の手引きは僕の感性だけだ。
気に入った作品は少し足を止めてじっくりと眺める。余計な情報がない分、普段よりも作品と素直な気持ちで向き合っている気がする。

宮廷画家だったルーベンスの作品は神話に題を取った荘厳な作品が多い。
ルーベンス。日本人なら「フランダースの犬」の有名なシーンで知っている人も多いかもしれない。主人公のネロが最期に見た作品はルーベンスの『キリストの昇架』と『キリストの降架』。
ベルギーのアントワープ聖母大聖堂にあり、この展覧会には展示されていないけれど、荘厳な作風は他の作品でも十分感じ取れる。

いつの間にか、展示をすべて回りきっていた。

展覧会を回りきると普段は足が痛くなるのだけど、今日は不思議とそうはならなかった。
どうだったろうか。僕はあの女性の分まで楽しめたのだろうか。
作品の世界に浸かっていたからか、途中からはそれすらも意識の外にいってしまっていた。

帰り際にカタログを購入し、それにチケットを丁寧に挟んだ。
おそらくこのカタログを開くたびに、今日の事を思い出す。

それはただ1人で展覧会を見た時よりもずっと深く僕の中にとどまり続けるはずだ。なによりもその事が、僕は意味のあることなんじゃないかと思っている。


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