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【恐怖の正体】”怖い”を考える

こんばんは、如月伊澄です。
ご無沙汰しております。

皆さんが怖いものは何ですか?

幽霊?怪物?
尖った針の先から甲殻類まで、人間の恐怖の対象はキリがありません。
ある意味、何でも「恐れる」ことが出来るのが人間の性質です。(故に神様や悪魔といったものが生まれたのかもしれません)

今回はこの本を読んで考えた「怖さ」について、お話していきたいと思います。あくまで考えたこと、なので正解も間違いもないよ!

【そもそも恐怖の定義とは?】

恐怖の正体では、このように「恐怖」を定義しています。

①危機感、②不条理感、③精神的視野狭窄ーーこれら三つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる。

春日武彦(著)恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで (中公新書)p.15

ちなみに「精神的視野狭窄」というのは、パニックになって目の前のことにしか、目が行かなくなる状態のことである。

目を閉じて、イメージして欲しい。

自分にとって危機感があり、不条理な状況におかれて、それしか目に入らない状態。

例えば、一本道の先にナイフを持った男が立っていて、彼は誰でもいいから暴力を振るいたいと考えている。ふと、目が合ってお互いを認識した瞬間、あなたはパニックになり、男の手にするナイフにしか目がいかなくなる。
次の行動は?なぜ自分だけがこんな目に?動けないうちに男がどんどん迫ってくる。ああ、なんて――

こんなパターンもあるだろう。

どうやら引っ越した先は、事故物件だったらしい。今のところなにもおかしなことは起きていないが、知ってしまうとなんとも不気味だ。
そもそも不動産屋から説明はなかったし、偶々知ってしまっただけで、自分から積極的に調べたわけでもない。そう思うと、壁のシミひとつでも、意味があるようで気になってきた。

明確に、自分に物理的な被害をもたらすだろう前者に比べ、まだ何かが起こったわけでも、何かが起こると決まっているわけでもない後者。
ただ、そこにある感情は、どちらも「恐怖」である。

ここからは、わかりやすくするために前者を①、後者を②と呼ぶこととする。

①は「暴力により怪我、あるいは命の危険」がある危機だ。
自分を狙って暴漢が襲ってきたわけでもなく(そもそも相手の考えていることなど、わからないとはいえ)、ただ出会ってしまったという不条理、そして目の前の危険にしか意識が向かないパニック状態。

これらは恐怖の定義に全て当てはまっている。
よほどの命知らずでなければ、恐怖を感じるシチュレーションだろう。

それでは②はどうだろうか?
事故物件だからといって、すぐに危険が及ぶわけではない。
確かに「事件があった場所」に知らずに住んでいる、というのは不条理だが、今すぐパニックになるほどのことだろうか?(筆者は間違いなくなるとはいえ)

恐怖の定義に接触している部分もあるとはいえ、全ての人が恐怖を覚えるシチュレーションではない。もちろん、何らかの形で霊障が起こるのであれば、危機感とパニックが発生し、ほとんどの人にとって恐怖の対象となるはずだ。

少し話は逸れるが「事故物件」や「幽霊」に対して恐怖を覚える割合は、「怖い話」を聞いたことがあるか、ないかで異なってくるのだろうか?
「そういう話」を聞くことで、これから起こりうることを想像し、恐怖するのか、それともそれらは根源的恐怖となるのか。

ここに今日テーマとして取り上げたいことが関わってくる。
今日のテーマは「自分に矢印が向かない”恐怖”をどう捉えるのか?」だ。

【対象は”あなた”か”誰か”か】

怖い話は好きだろうか?

幽霊、怪物、スプラッタに本当に怖いのは人間の悪意――様々な「怖い話」があるが、それらはあくまで「誰か」の体験談だったり、フィクションである。

ただし、そんな怖い話の中には「自己責任系」という名の、読む、聞く、見ることで、自身に対しても危害が及ぶ(と言われている)ものがあるのをご存じだろうか?

例えば・・・・・・でいくつか名前を出してもいいのだが、それによって危害が及んだと責任を問われても困るので、具体的な名前は伏せておく。そもそも、著者は怖いので、そういう怪談は読まない、見ないことにしている。いくつか名前を知っているだけだ。

市販されている小説でも、同じようなものがある。
私の好きなホラー作家の「澤村伊智」先生の著作で考えてみよう。

「ぼぎわんが来る」
「ぼぎわん」という正体不明の何か、にまつわる物語である。
以下にあらすじを引用しておく。

幸せな新婚生活を営んでいた田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。取り次いだ後輩の伝言に戦慄する。

それは生誕を目前にした娘・知紗の名前であった。原因不明の怪我を負った後輩は、入院先で憔悴してゆく。

その後も秀樹の周囲に不審な電話やメールが届く。一連の怪異は、今は亡き祖父が恐れていた“ぼぎわん”という化け物の仕業なのか?

愛する家族を守るため秀樹は伝手をたどり、比嘉真琴という女性霊媒師に出会う。

真琴は田原家に通いはじめるが、迫り来る存在が極めて凶暴なものだと知る。はたして“ぼぎわん”の魔の手から、逃れることはできるのか……。

「ぼぎわんが、来る」澤村伊智 [角川ホラー文庫] - KADOKAWA

あくまで対象は「物語の中のキャラクター」である。彼らの反応や事象、それがもたらす結果に、読者は恐怖し、怯えることとなるのだが、ともかく自身に危害が及ぶわけではない。
物語の中の怖さとして(まあ、実はそうとも言っていられないわけだが)それを楽しむことができる。

【ずうのめ人形】
その物語を読んだら最後、人形による「死」が待っている。
という原稿を、読者はこの本の中で読み進めることとなる。

こちらも以下にあらすじを引用しておく。

オカルト雑誌で働く藤間が受け取った、とある原稿。読み進めていくと、作中に登場する人形が現実にも現れるようになり……。迫りくる死を防ぐために、呪いの原稿の謎を解け。新鋭が放つ最恐ミステリ!

「ずうのめ人形」澤村伊智 [角川ホラー文庫] - KADOKAWA

ミステリ?嘘をつけ!怖すぎるだろ!

読んだら死ぬ本を、読者は読み進めることになる。
つまり、物語の世界を越えて、怪異の射程距離は「読者」にも届いてしまう。さらに言えば、一気にヤりに来るわけではなく、じわじわ来る恐怖なのが、タチが悪い。

そんなはずはない、といえばそうなのだが、もしかしたら・・・・・・を考えると、ぼぎわんに比べて怖さが倍増する。

まさに①危機感があって、②不条理(本を読んだだけなのに)であり、③解決のためには恐怖に怯えながら、本を読み進めるしかない。恐怖の一冊である。

あまりに怖いので、以前の職場の先輩と「これから読むから、もし私が死んだら後はヨロシク」とそんな会話をした覚えがある。その後、先輩がピンピンしてたから、私も読むことにした。

個人的な見解を述べると、やはり「対象が自分に向く」か「物語の中で完結する」かは、恐怖の質に大きな影響を与える気がする。
実際にそれが起こりそうか、そうでないか、も大きな要素のひとつだろう。

例えばホラー映画(原作は小説)の「リング」。
ビデオが一般的だった時代かつチェーンメールなど、恐怖の伝播がイメージできた時代だったからこそ、世間に大きな恐怖をもたらしたが、現代社会ではビデオはすでに姿を消し、今時の子にはその恐怖が伝わらないかもしれない。

「着信アリ」はどうだろう?
携帯電話は姿を消し、スマートフォンに取って代わった現代。着信自体はイメージしやすいとはいえ、携帯電話というツールが消えた今、その恐怖度はかなり異なるのではないだろうか?

そう考えると「物語」や「本」、「文章」という形で残る「怖さ」は、結構合理的なのかもしれない。いつの時代もそばにあって、映像がない分、イメージでどこまでも怖くなれる。

ちなみに、ミステリー小説を読んでいて殺人事件が起きても、ホラー小説とと違って怖くないのはなぜだろうか?同じく人が死んでいるというのに。
やはり、殺人犯は物語の中から出てこない、ことが大きいのではないだろうか?

あくまで彼らは人間なので(また、論理の世界の住人である)物語を抜け出して現実世界に影響を与えることはないし、基本的には「動機」があって殺人を犯している。不条理に誰でもいいからやった、ということもないわけだ。

そのように考えていくと、やはり「自分に向いた悪意や暴力」が、恐怖という感情において、重要な要素となる気がするのだが、どうだろうか?

【さいごに】

これらを踏まえて、怖い一文を考えてみた。
ぜひ、イメージしてみて欲しい。

暗闇から何者かが、あなたに向かって手を振っている。

おしまい。

少しだけでもあなたの時間を楽しいものにできたのであれば、幸いです。 ぜひ、応援お願いいたします。