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彼女

21歳の彼女は今日も歌を歌っている。
歌を歌いながらコーヒーを淹れている。
いや、ほんとうはコーヒーを淹れながら歌を歌っているのかもしれない。
彼女はそういう人だ。

僕はというと、心地よい暖かさを保ったやわらかい天国から抜け出せずにいた。この時期の朝は地獄だ。
どうやら、どうしても僕のこの身体は起き上がりたくないらしい。22年も生きているとそれくらいのことはわかる。
そうして僕は諦めて、仕方なく彼女を眺めていた。

彼女をこの天国から眺めるには、少しだけコツが要る。

僕たちが暮らすこのワンルームは廊下にキッチンがあって、みどり色のストリングカーテンが廊下と部屋とを分けている。
ストリングカーテンのバリアを張った彼女は途切れ途切れで、まるで壊れたテレビのような、みどり色の色鉛筆で塗りつぶした写真のような、なんだかそのままどこかへ消えていってしまいそうな、そんな危なっかしさだ。

途切れ途切れになった彼女を、僕はいつも丁寧に補完していく。

点線のようになってしまった彼女の輪郭をひとつひとつ繋ぎあわせる。
肩にかかるくらいの髪を耳にかけて、コーヒーと睨めっこしている彼女が現れる。ゆったりと纏ったお気に入りのワンピースは、もうすっかり見慣れてしまった。
こんな風に不完全な彼女を完成させられるのは、世界でたった一人、誰よりも長く彼女を見てきた僕だけだと思う。

でもほんとうはわかっている。目を閉じていたって彼女を感じられる。
僕はゆっくりと目を閉じた。

今朝は特にそうだ。
彼女の淹れるコーヒーの香りが僕の嗅覚を、彼女の口ずさむメロディが僕の聴覚をくすぐってくる。
彼女がゆっくりと、僕の中に入ってくる。

彼女は知らないのだと思う。
僕は彼女の中に入ったことがあって、そのことを二人ともが知っているけれど、彼女が僕の中に入ってきたことがあるということを彼女は気づいていない。

それが不安なのだと、いつかの彼女は言っていた。
僕は「大丈夫だよ」と言った。

大丈夫だよ。
これから君はもっとたくさんの人に出会って、その人に入ったり入られたりしながら、そうして君はできていくんだ。
決しておかしなことじゃない。
大丈夫。大丈夫だからね。きっと君は大丈夫。

キッチンからはまだ彼女のメロディが聞こえている。
ほんとうに好きだよね、その歌。
どうかそのまま歌っていて、と、そう思ってしまった。

冬の朝は地獄だけれど、何と言っても今朝は二人のための朝だ。
正しくなくたっていい。間違っていてもいい。
でも誰にだって邪魔はされたくない。誰にだって邪魔はさせない。
そんな朝を、僕たちは迎えたのだ。

僕はやっとの思いで天国を抜け出し、地獄にいる彼女に会いにいく。
そして彼女の淹れたコーヒーを、彼女のメロディが溶け込んだコーヒーをゆっくり味わって、それから今日は何をしようかと話をする。

彼女は買い物へ行きたいと言う。マフラーが古くなってしまったから買いに行きたいのだと。
僕は映画へ行きたいと言う。憧れの監督の新作映画が昨日公開されたのだ。

僕たちの行きたいところはいつだって違っていた。
いつもゆずったりぶつかったりしながら、それでもお互いの意見を大切にしてきた。
いつもよく話し合って、それから、それから—————————

バタン、と扉の閉まる音がした。
どうやら、彼女が出かけていったらしい。
玄関の方へ目をやると、みどり色のストリングカーテンが誰をかき消すこともせずかすかに揺れていた。

彼女は見えなくなってしまったけれど、僕にはわかる。
お気に入りのワンピースを着た彼女は、いつもより大きなカバンを持って駅へ向かって歩いていく。
自分の足で、自分の意志でゆっくりと、けれどしっかりと歩いていく。

ちゃんと鍵は忘れず置いていったかな。

僕は未だに天国を抜けられないままで、そして、溢れ出る涙を止められずにいた。

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