文学作品を通じて何をしているのか(2)(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた⑥)
前回の投稿では、国語科教育のまったくの素人である私が文学作品(詩)の鑑賞をしてみたことで感じたことを共有させていただきました。
今回は、前回の投稿で書いた内容をもう少しまとめる形で、文学作品が教育現場で担う役割を自分なりに整理しておきたいと思います。
どうして学ぶのか。「実用性」は?
前回の投稿でも書きましたが、私はそもそも文学作品を国語の授業で扱うことに疑問を持っていました。何のために文学作品を学ぶのか分からない、もう少し具体的に言えば、何の実用性も感じない、という疑問だと思います。
「実用性」と言っても、新学習指導要領で取り沙汰されている「実用文」を推したいというわけではありません。ただ、例えば論説文であれば、高校を卒業して大学に進学したならばほぼ間違いなく論文を読むことになるので、論説文の読み方を学んでおくことは学問の世界において必要だと思います。
論説文の構造を知っておくことで、自分が論文を書くときだったり、あるいは論文でなくとも誰かに何かを説明する際に、論説文の構造に関する知識が役に立つでしょう。英語教育においてもまさにそういったことはなんとなく意識されていると思います。
ところが、文学作品となると、何も高校生の多くが将来文学作品を書くわけではありません。そういう意味で、文学作品を学ぶことに「実用性」が感じられないと思っていたわけです。
今回、自分が詩の鑑賞をしたり、その前後の講義から学んだこと、また授業後に国語科教育法の先生に個人的に伺ったことで、文学作品を学校の授業で扱う理由が自分なりには理解できました。あくまで私自身の拙いまとめですが、共有させていただきます。
文学を扱う理由①:鑑賞する楽しさを学ぶ
前回の投稿でも書きましたが、文学作品を鑑賞して様々な「解釈」を考えるのは、非常に知的で楽しい営みであると感じました。私は中高時代にその楽しさをきちんと経験することがなかったため、文学作品をむしろ毛嫌いしていました。学生時代にこの楽しさにきちんと触れてたら、自分の文学作品への印象も違っていたかもしれません。
学習指導要領では、過去の版から一貫して読書に親しむ態度を育むことを国語科教育の目標のひとつとしてきたようです。文学鑑賞の楽しさに触れさせて、生徒を読書の世界に誘うことは、国語科教育の大切な要素なのだろうと推察します。
文学を扱う理由②:多様性を認める素地を形成する
文学作品の鑑賞をしてみると、複数の解釈が可能であることに気付かされます。自分がこうだと思ったのとは全く異なる解釈を他から聞いたときには、なるほど、と思わされます。もちろん、全く根拠のない突拍子もない解釈であれば「それは違うんじゃないか」となりますが、それなりの説得力をもった解釈であれば、自分には気付かなかった新たな発見として受け入れることができるでしょう。
同じ作品を鑑賞した結果人によって感じ方が異なるということはまさに多様性そのものであり、文学鑑賞が多様な考え方受け取り方を認めることができる価値観の形成に大切な役割を果たしていると考えられます。
文学を扱う理由③:「解釈」はコミュニケーションそのもの
ここからの2点は私が受講している教科教育法の先生に個人的にお話を伺った際にヒントをいただいた点になります。
先生によれば、まず言葉の「解釈」とは普段のコミュニケーションそのものだということです。
確かに、日頃の会話においても言葉の解釈を適切にできなければ、「空気が読めない」ということになってしまいます。それに、コミュニケーションにおける発言の「解釈」は、受け取る側が勝手にできるものではなく、状況や文脈などの条件により、可能な解釈の幅がある程度絞られているはずです。
文学作品の解釈を通じて、論拠をもって言葉の解釈を行うトレーニングは、日常のコミュニケーションを円滑に行う練習にもなっているという考え方は、ある意味非常に「実用的」であり、文学を扱うことに懐疑的であった私も納得することができました。
文学を扱う理由④:裏の意図を探る
もう一つ、これは自分個人では思いつくことはできなかったことですが、作品を批判的に見て裏の意図を探る習慣を身につけさせる目的もあると先生に伺いました。もっとストレートに言うと、作品を通じたプロパガンダなどに無防備に洗脳されないように、ということです。
真意はさておき、例えば『鉄腕アトム』は原子力発電へのイメージを向上させるプロパガンダとして放送されていたという話もあるそうです(少し調べただけでもこの話はデマであるという情報に触れることができますから、あくまでここでは物の例えで昔の作品を出しているだけです)。
何も考えずに作品の醸し出すイメージに感化されてしまうのではなく、一人ひとりが作品の「解釈」を行い、真意や裏の意図を探る能力を身に着けておくことは、確かに社会やコミュニティの健全な発展のために必要なことだと考えさせられます。
国語科教育の「なぜ」がひとつ見えた
そもそも私が国語科教育法の授業を履修しようと思ったのは、国語科に対する「なぜそんなことをやっているの?」や「どうしてこれはやらないの?」といった疑問について、内側から答えを探ってみたいというのが一つの理由でした。
今回ここに書いた文学作品を扱う理由が、すべて正しいとも限りませんし、包括的なものでもないでしょう。ただ、自分の疑問に自分なりの答えが見いだせたことに関しては、大きな価値を感じています。やはり、自分で経験をしながら答えを見出していくということは重要なのだと改めて認識しました。
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