ショートショート【空飛ぶポスト】

 深夜バイトの帰り道、こんなところにポストがあっただろうかと思う。所々塗装は剥げ落ちていて、新しく設置されたものではないのは間違いないだろう。街灯に照らされたポストは、濡れたような赤黒い光沢を帯びていて、それがなんとも不気味にも思えた。少なくともこんな色のポストは、今までに見たことが無い。
 僕がしばらくそのポストから目を離せないでいると、その四角いポストは、ひとりでにゆっくりと開いた。それは扉みたいに、ハガキを入れる口の付いた正面の部分が、右側の一片を固定したまま横開きに開いて、がらんどうの中身を僕に見せた。ポストの内側は銀色に光っていて、そこだけはまるで新品みたいだと思った。
 僕は人一人ならその中に入れそうだと思い、そして何故かそれを実行に移そうとしていた。
 お尻と背中からポストの中に入れ込み、首を曲げその低い天井に合わせ、あとは脚を折りたたんで押し込み、それを両腕で抱えるように固定する。僕は体育座りのような恰好で、ポストの中に収まった。そして開いたままのポストの扉を見ると、内側に取っ手が付いていて、僕はそれを掴むと、そのままポストを閉じた。
 ハガキの入れ口から僅かに光が入ってくるだけで、その部分を隠せば、後は限りなく闇に近い空間だった。僕の呼吸が内部で反響するばかりで、音もほとんど入ってこない。窮屈で狭くて、だけど何故か落ち着いた。
「このままどこかに飛んでいければいいのに」
 僕はそんなことを呟いていた。するとポストは小刻みに震えだすのだった。僕は何が起こったのか何もわからず、内側の取っ手を掴んで何度も強く押したがその扉が開いてくれることは無かった。大きな音が外から響いたと思い小窓から外を覗くと、そこから見える景色は上から下へと高速で滑ってていくようで、僕は自分が上空へと凄まじい速度で上昇していることがわかった。
 僅かに覗ける下の景色を見ると、夥しい量の点の光に覆われた街並みがそこにはあった。そしてポストはそのまま空を走り、僕にどこまでも続くその光の景色を見せながら、どこかへと、向かい始めた。
 いつしか僕をいれたポストは街を越え、鬱蒼とした木々に覆われた森に入り、そのまま山を越えて海に出た。波の無い海の上を走り、その表面が僅かに輝いたかと思うと、前方の水平線から朝陽が、その輪郭をゆっくりと浮かべていくのが見えた。海面の少し上には一組のカモメが飛んでおり、笛の音のような声で互いに鳴き交わしていた。海面に小さな波紋のようなものが浮かんだと思うと、それは次第に大きくなり、その後を追うように、その中心に生まれた小さな影の点が、ゆっくりと膨れ上がり、次の瞬間巨大な黒い塊が、海面から大きく飛び上がった。それは巨大なクジラだった。そのクジラが立てる飛沫を避けるようにカモメは飛び、クジラはそのまま背中を浮かべ静かに揺蕩うと、そこに小さな島が出来たように見えた。
 それからもう少し飛んだところにあった海岸の砂の上にポストは着いた。ポストはゆっくりと高度を下げ、砂に埋まる感触が僕を包んだ。僅かに軋むような音が聞こえたかと思うと、ひとりでに扉は開き、僕の顔にまぶしい朝の陽が射した。
外に出て身体を伸ばすと、潮風が僕の顔にぶつかってくる。しばらく砂の上を歩いてみるも人の痕跡はどこにも無く、もしかしたら無人島かもしれなかった。太陽の下で見るポストはやっぱり赤黒い色をしていて、青い空や海、そして砂で構築された景色の中で、それだけがくっきりと輪郭を持ったように浮いて見える。
 そしてまたもう一度ポストの中に入る。
「帰りたいな」
 僕がそう呟くと、ポストは砂浜を飛び立った。

 それから僕は、ありとあらゆる場所をこのポストで楽しんだ。バイトでストレスが溜まれば誰もいない山の中で小川のせせらぎを聞いて癒され、彼女とケンカすれば落ち着くためにまたどこかの海岸へ飛ぶ。時間が出来れば行ってみたかった県に飛んでは遊びほうけ、飽きたらまた帰った。僕はなるべく人目のつかない深夜の時間を選んで飛びはしたが、どうやらこのポストは誰の目にも触れぬように勝手に飛んでくれるようだった。だから例えば遊園地まで行きたいとお願いしても、その遊園地から最も近くの、人気の無い空き地や路地に降ろされるのだった。
 そしてこのポストは明確な場所の指示を与えれば、寸分の狂いも無くその場所に運んでくれるらしかった。僕はポストに入ると目をつぶり、幼少期に育った田舎の町の、その奥にあった小山の中にある、丸い大岩を願った。それは当時ろくに友達もいなかった僕が一人で過ごす格好の遊び場だった。僕はその大岩の裏で、拾ってきた枝や石で小さな塔を立てて遊んだり、平たい石をいくつか積んで作った架空の友達に向かって語りかけたり、その無限とも思えた膨大な暇を僕はそこで無理矢理に埋めていた。そしてポストを出ると目の前には、その大岩が立っているのだった。それは記憶よりもいくらか小さく、大岩と呼べるほどのものではなかった。だがその岩の表面には、当時の僕が書いたらしい「天狗大臣」という謎の言葉が彫られ、その溝を撫でると何故か涙が湧き出し目の縁を濡らした。

 行きたい場所は次から次へと思い浮かんだ。特に海外までも飛んでいけると分かった時点でその欲求はほとんど爆発してしまっていた。僕はポストに入ると世界の端から端へと飛び回った。

 ただ僕の前には大きな問題が一つ生まれ、それはポストに入れるのはどう詰めても一人だけだということだった。事実このポストを手に入れてから僕が一人で世界を飛び回り続けたために、彼女との間に少しずつの不和が生じ始めた。家を空けてばかりいる僕に浮気を疑ってすらいるらしく、僕は出来ることなら彼女と二人で旅行に行きたかった。そしてそれはおそらく金があれば出来た。
 僕はポストに入ると、「銀行の、金庫の中」と呟いてみた。するとポストは当然のように浮かび上がった。ポストはどこかの街の上空へ着き、僕はこれからどうなるのかと心臓を高鳴らせていた。だがもはやその行く末を待つしかなかった。一度飛び立ったポストは行き先の途中変更が効かなかった。小窓から外を眺めていると、不意にその景色は真っ黒くなり、何も見えなくなるのだった。そして僅かな振動が走ったかと思うと、ポストは停止し、そして開いた。顔を出すとそこには、見たことも無い量の札束が至る所に積まれていた。それは狭苦しい小部屋のようで、一か所だけ厳重に閉ざされた入り口が置かれていた。そしてけたたましいサイレンが響き、僕の全身を包んで揺らした。僕は焦りながらも札束を抱えられるだけ抱えると、ポストに身体を押し込み、帰宅を願った。小窓は再び闇となり僕は去った。
 翌日のニュースでそこが巨大な都市銀行の一つだったと知った。僕の部屋からは随分と離れており、捜査の手が僕に届くことは無いだろうと思った。
 そして僕は彼女と二人きりの旅行を楽しむことが出来た。僕はこれまでの寂しい思いを申し訳なく思い、彼女をありったけ甘やかすことにした。僕にはそれが許されるだけの金があった。
 彼女は精神が時折不安定になる僕をいつだって支えてくれるような女性だった。僕は彼女に感謝し、いつかはきちんと就職して、結婚しようと思っていた。生活に余裕のある暮らしでは無いかもしれないけれど、彼女だけは幸福にしてやらなければと決めているのだった。けれど望むだけ金を手に入れることが出来るようになった今、彼女を幸福にすることはもはや簡単なことでしかない気がした。

 しかし唐突に訪れた幸福は、同じく唐突に去るものだった。彼女との何度目か分からない旅行から帰ってきた日の夜、突然テレビは全局緊急生放送に切り替わり、地球に巨大な隕石が迫っていることを告げた。そしてそれはもう避けられない事態だということ。そしてこれまで秘密裏に対策を講じ続けてきたが、既に手遅れの段階にまで来たと言うこと。そしておそらくはあと一週間ほどで、地球は滅びるということも。
 世界中は阿鼻叫喚に溢れ、だがそれはすぐに諦めへと形を変えた。僕と彼女は部屋の中で、ひたすらに抱きしめ合い、時間を溶かした。腕の中にあるのはどこまでも美しく、愛おしい存在で、僕のほとんど崩れた心を一つ一つ拾い上げ、元の通り収め撫でてくれた、かけがえのない恋人だった。彼女を抱きしめながら、僕は意識の端に巣喰うポストの色を感じた。
 僕は目の前の彼女を結局、幸福にすることは出来なかったと思った。だが彼女はまさに今も幸福の水に全身を浸らせているみたいに笑い、震える身体を僕に預けるのだった。僕の意識は、彼女をどうにかして守らなくてはと、そう言っているのだった。僕は彼女の身体を離し、どこまでも不安げな彼女の肩を持つと、少しだけ待っていてと呟き、部屋を飛び出した。ポストは変わらずにその場所にあった。
 彼女を選べたらどれだけ良かっただろう。だが僕は、弱い人間だった。
「どこか、人の住める星へ」
 僕を入れたポストは、空へと飛び上がった。

 ポストの中は、腹も減らなければ喉も乾かない、そして宇宙空間であっても不思議と呼吸は続くようだった。小窓から、遠ざかっていく地球の姿が見え、それが随分と小さくなった時、それは隕石の衝突を受ける地球の景色へと変わった。僕はそれから、いつまでも飛び続けている。ゆっくりと、人の住めるどこかを目指して。だが僕はいつか気づいた。そんな場所はきっとどこにも無いのだと。目的地の存在しないポストは、このままひたすらに進み続けるばかりなのだろう。ポストの中は、腹も減らなければ喉も乾かない、そして呼吸は続く。僕は死ぬことが出来ない。
 小窓から除く景色は一面の闇に、多量の光点がまぶされ、きらめき、ただそれだけだった。

 ポストは進んだ。きっといつまでも。







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