ショートショート「列車」

 線路を噛む車輪の振動に目を覚ますと、既に列車の中だった。私は窓際の席に座り、手には切符が握られていた。切符には矢印だけが書かれており、私がどこから来たのか、そしてどこに向かっているのかを教えてはくれなかった。車内には私の他に、誰もいないのだった。
 列車に揺られ旅をするのは若い頃から好きだった。結婚してからも子供が生まれるまでは、妻と一緒にこうして列車に乗り込んで富士を見に行ったり、わざわざ雪国へ出向いたりしたものだ。子供が一人立ちし、また夫婦二人きりになった折にはそんな旅をもう一度しようと語り合っていたものだが、悠長に過ごしているうちに気づけば年を取り、旅もなんだかおっくうになった。そして妻は先に亡くなってしまった。もう一度だけ二人で旅をしておけば良かったというのは、私の唯一の後悔だろう。
 その時窓に飛び込んだのは、紛れも無い富士だった。限りないほどの時の流れの中でそこに立ち続け、ありとあらゆる生命の飛沫や、自然の刃や愛撫も、その全てを悠々と受け入れ続ける富士の山が、そこにはあった。それはあの時と何ら変わらない雄大な富士だった。
 トンネルに入り暗闇が全身を包んだが、それは一瞬でぬぐい取られ再び列車は外へ出た。そしてそこは雪国だった。視界に入る家々はみな膨大な雪で埋め尽くされており、どうにか屋根を見せるだけで、あとは白一面と言って差し支えが無かった。振り続ける粉雪は窓を覆い始め、触れると結露した冷たい水滴が指先を濡らした。あの時妻はこうして曇った窓に雪だるまを描いていたことを思い出す。だがこれは一体どういうことだろうか、窓の外の景色は、一瞬で富士から雪国へと移り変わった。私の記憶の限りではこの二点はどうしたって遠すぎる、答えの出ぬ間に列車は再びトンネルへと入る。
 そのトンネルを抜けると今度は海の上だった。降り注ぐ陽の光は、まっさらな海原の表面をきらびやかに輝かせ、乱反射する白い光の破片は私の目をくらませるほどだった。窓を開けると、潮の匂いが鼻の奥を突いた。ここは間違いなく海の上だった。窓から首を出し、下をのぞき込むと、線路も引かずに何故か列車は海の上を、激しい飛沫をあげながら突き進んでいる。顔を上げると、上から降るように飛んできた数匹のカモメが列車に並走し、歌うような鳴き声をあげた。
 これは夢か何かだろうか、だとすればあまりにも楽しく、美しすぎる気がする。遠くで魚が跳ねるのが見えた。一匹、また一匹と、水面から体を飛び上がらせるその数は次第に数を増していき、気づけば大群となって飛んでいる。そしてそれを遮るように、海面から巨大な黒い塊が噴出し、私の視界をほとんど覆ってしまった。それはクジラだった。宙に浮いたクジラは再び海へと飛び込み、ほとんど波のような飛沫をあげ、それは窓から顔を出す私の顔にも激しく打ち付けられた。
 顔や胸を濡らし、私は余りにも異常なこの状況に思わず笑い声をあげていた。笑ってしまえばもう私の負けだ。私はこの列車がどこにたどり着くか、こうなればとことん見てやろうと思った。
 私が初めてクジラを見たのは、高校を卒業した頃だった。元々島育ちだった私は、卒業と同時に胸を高鳴らせながら船に乗り本土へと向かった。親元を離れ、とても無視することは出来ない不安を抱えた私からそれらを薙ぎ払ってくれたのは、船の上で偶然見かけたクジラの姿だった。その時もクジラの飛沫は私の顔を濡らした。
 列車は少しずつ海に沈んでいくようだった。私は窓を閉め、その行く末を黙って眺めることにした。窓の外の景色は全て海に浸り、それでもまた少しずつ沈んでいった。光の届かぬ深海へと向かい、再び列車の中は暗闇に満たされてゆく。
 再び車輪の音が聞こえ、それに混じる太鼓の音が聞こえた。目を開けると窓の外には、夕日に照らされた屋台の群れが立ち並び、それは夏祭りだった。射的に輪投げ、金魚すくいなど、活気に満ちた出店と、それを満たす人々。視界の中で流れていく人々はみな笑顔で、年に一度の宴を心の底から楽しんでいるようだった。窓を開けると焼けたソースの匂いが車内に入り込んだ。
 すると車両の前方からカートを押す女性が現れた。どうやら車内販売のようだった。
「いかがですか?」
 カートの中を見ると、イカ焼きやたこ焼き、焼きそばに綿あめ、リンゴ飴など、夏祭りを彩るありとあらゆるものがそこには詰まっていた。
「じゃあ、焼きそばと、リンゴ飴を」
 私はじっくりと吟味した後、その二つを選んだ。随分と食の細くなってしまった自分を少し恨んだ。
「ビールは?」
「……じゃあ。……あと、やっぱり焼きトウモロコシも一つ」
 私の前に焼きそばとリンゴ飴を並べる女性は私に微笑みかけると、「ええ、もちろん」と言ってビールと焼きトウモロコシも置いてくれた。
「あ、あの、私お金が、」
「そんなのは構いませんよ」
 その女性は誰かに似ている気がした。私の目の前に並んだ物達を見ると、私は年甲斐もなく興奮してしまっている自分に気づいた。これだけの量を果たして食べきれるだろうか、だがひとまずは食べてみればいい。
 焼きトウモロコシを齧ったのはいつ以来のことだろう。歯の先で破裂する粒の飛沫が香ばしい甘みを口に広げた。そして味もまた、古い記憶を掘り起こす鍵としての役割を果たしてくれるようであった。妻と初めて出会ったのは、まさにこんな夏祭りだったのだ。
 島を出て働き出した私は、職場の先輩に連れられ夏祭りに来ていた。これほど大きな祭りなど生まれて初めてだった私は思わず周囲に立ち並ぶ輝かしい美しさに目を奪われ、すぐに先輩とはぐれてしまったのだった。細部までを味わうようにゆったりと歩いていると屋台の外れまで辿り着き、そこにあった小さな神社の階段に、浴衣を着た女の子がうつむいて座っているのが見えた。どうやら履物の鼻緒が切れてしまったようだった。
「直しましょうか?」
 当時無鉄砲なところがあった私は、気づけば話しかけてしまっていた。顔を上げた彼女を見ると、私はそれまでに見てきた華美な祭景色が全て背景に過ぎなかったのだと思った。今思い返せばそれは恋をしたことに違いなかった。彼女以外の物全てが、濁っているのではないかと本気で思った。
「すみません、切れてしまったようで」
「それなら直せると思います」
 私は恥じらいすぐに顔を伏せた。緊張で手を震わせながら、私は必死に彼女の鼻緒を直した。
「それでは、」
「待って!」
 立ち去ろうとする私の肩を彼女は掴んだ。電流に近いものが全身を流れた。
「何かお礼を」
「いや、そんな大したことは、」
 一度決めたら頑固な性格は出会った時から変わらなかった。私は近くにあった焼きトウモロコシの屋台を指さすと、彼女はそれを二本買い、片方を私に手渡した。横に並び齧ったトウモロコシの味など、その時の緊張のために忘れ去ったと思っていたがどうやら記憶の底にはしっかりとこびりついていたようである。
 私はそのまま焼きそばを食べ、リンゴ飴を齧り、ビールを口に含みながら、窓に流れる祭景色を眺めた。今度は大きなやぐらを取り囲んだ人々が、太鼓の音と共に盆踊りに興じているのが見えた。その中で一人の若い男が、手を取られながら浴衣の女の子に踊りを習っている姿があった。あの日の私も、ああして彼女に踊りを教えてもらったものだ。丁度あの時の彼女も同じ紫陽花の柄を着ていた。
 祭りを抜け目の前には黒い夜空だけが広がった。遠ざかる太鼓の振動を背中に感じていると、その音を切り裂くように一本の光線が笛のような音を響かせ、緩やかな蛇行を描きながら、どこまでも高く伸び上がった。光の線は闇の中央まで到達し、ふっと消えたかと思うと、朧げに薄れゆく自らの線を打ち消すかのように、窓の枠の中を覆い尽くしてしまうほどの巨大で鮮やかな黄色の光線を花開かせ、花弁をゆっくりと伸ばしながらどこまでも広がり、その後を追い轟音の一つの塊が、私の全身を震わせた。
 その後も列車は走り、窓の外の景色を移ろわせ続けた。桜並木に、大きな神社の石畳の上、はたまた新婚旅行で行ったフランスのレンガで彩られた街並みなど、そのどれもが美しく、かつ私の記憶に触れる景色ばかりだった。
 列車はなだらかに、見覚えのある夕暮れの町の中を走っていた。車両の前方が開き、今度は背の低い車掌がこちらに向かってくる。車掌は私の隣に座ると、私に訊ねるのだった。
「どうですか、この景色は」
「二人で、よく歩いたね」
 車掌は帽子を取った。それは妻だった。
「今日は色んな景色を見せてもらったけど、私はなんだかこの景色が一番しっくりくる気がするんだ」
 今窓の外に見えているのは、私と妻が共に幾重もの生活を積み重ねた近所の景色だった。
「また二人で歩きたいものだね」
「いつだって付き合いますよ」
 妻は私の手の上に手を重ねた。私の目に映る妻の顔が、次第ににじんでいくのが分かった。それを止めることなど出来ないと分かっていた私は、手の上に感じる妻の体温を、少しもこぼさずに受け入れることだけに意識をやるのだった。
「そろそろ着きますよ」
 妻はそう言った。いつだって妻の声は、私の頭を撫でるように優しく、私に浸みわたった。

目を覚ますと、そこは病室のベッドの上だった。枕元には男が一人立っていて、私の手には切符が握られていた。
「どうでしたか、思い出列車は」
私はそこで全てを思い出した。病に侵されもう先は長くないと悟った私は、過去の思い出をもう一度旅することが出来るという思い出列車の切符を買ったのだった。
私はもう諦めて、これを最後に死んでしまおうと思っていた。だが列車が最後にたどり着いた場所は、まだ決して終着駅などではなかった。
「……もう少しだけ、歩いてみようか」
 窓の外を見上げると、夕陽に照らされた薄雲がどこまでも広がっていた。どこか遠くで、甲高い汽笛の音が聞こえた。




続いてはこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?