ショートショート「四季旅館」

 私が屋上で一人準備していると、話しかけてきたのは亀山君だった。彼は私に一枚の紙を差し出し、受け取るとそこには暖かな光を宿した豪勢な旅館の外観写真と、その旅館の名前が記されていた。
「四季の移ろいを眺めながら酒が飲めます」
「へえ、……けど確かに人生で一度くらい、こんな旅館に泊まってみるのもいいかもしれない」
「お連れします」
「亀山君が?急にどうしてそんなこと」
「五十嵐さんには以前、私が仕事で失敗して課長に叱責されている際、助けて頂きました」
「別にあんなの、気にすることじゃない。それに、意地の悪いあの課長が悪いんだ」
「お礼をさせてください。最後に一度くらい」

 私達は列車に乗り込み、彼の言う旅館へと向かった。最寄り駅を降りてからも、山奥のそのまた山奥へと、彼は道のようで道でない道をいつまでも進み、私は黙ってその後ろを歩き続けた。
 突然細い道を抜け、広がりに出たかと思うと、その煌びやかな旅館が私の視界を覆ったのだった。重厚に構築された壁と瓦を縁取るように金は引かれ、中央に置かれた巨大な門の両脇に立つ灯篭はそれを照らし、そうやって旅館全体が荘厳な光を放っているように見えた。
「本当に、城みたいだな」
 亀山君に連れられ門を抜け、私は旅館の中へと足を踏み入れた。内部の装飾も見事ではあったが、私はその涼しさにも驚かされた。長時間歩いたために熱を帯び汗を滴らせていた肌は一瞬にして冷やされ、それはまるで水の中のようだった。
 入り口では、綺麗な女が私を迎えた。彼女は一瞬でも分かる気品と高潔さを纏っており、私はそれにしたって随分と若い女将じゃないかと思った。
「お待ちしておりました五十嵐様。それではお部屋の方にご案内します」
 大きな階段を上り、長い廊下を進むとその部屋はあった。一人ではとても持て余すほどに広いのは勿論であるが、何よりもその部屋には壁一面の巨大な窓があるのだった。そこからは鬱蒼と茂る木々や小さな池、奥に広がる山や暮れ始めた空など、外界の景色を全て一望できるほどだった。
 気づけばもう亀山君はいなかった。そして料理の支度をすると言って女将も部屋を出ていってしまう。一人残された私は、どしりと部屋に座り込んだ。
 私は窓の外の景色を眺めた。こんな秋の終わりのつまらない景色でも、これだけ立派な部屋から見ればどことなく綺麗にも思えてくる。そしてあっという間に日は暮れ、真っ暗な夜が景色をどっぷりと満たした。
 不思議なことが起きだしたのはこの時からだった。空が明るみ始めたかと思うと、私が目をこすり再び顔を上げた頃には既に朝の光に照らされているのだった。私が目を丸くしている間にもまた再び陽は沈み、そして朝が来てすぐにまた夜になった。
「……どうなってる」
 その動きが緩やかになったかと思うと、空からはひらりひらりと粉雪が降り始めた。空の雲が千切れて欠片となって降ってきたみたいに、それは重力を振り解いてゆっくりと降り続ける。そして木々を、山を、池の水面を、その景色の全てを白に染めていくのだった。その一面の白に目を奪われていると、隣で女将の声が響いた。
「不思議でしょう?」
 私がその声に驚き、身を震わせると、彼女はごめんなさいねと呟き、歯を見せて笑った。
「ほら次は春になる」
 彼女の言葉に再び外を見ると、まだ変わらず雪景色が広がっていた。だがその細部を注視すると少しずつではあるが、その雪の下から緑や茶の色が露呈してきている気がした。そしてそれは瞬きの度に数を増し、その一つ一つはじんわりと広がり、ゆっくりと白の面積は剥がされるように溶け、最後には完全に消え去った。
 すると今度は、雪が去り露わになった土から、力強く草花が芽吹き出し、茎を伸ばし、鮮やかな花を開かせた。そしてそのすぐ後を追うように、木々の枝を薄い桃色の粒が覆い始めたかと思うと、それは一瞬にして花開き、満開の桜となって威風堂々と立ち並んだ。風が吹くとその花びらは舞い上がり、景色の全てを彩るのだった。池の水面にはそんな花びらが浮かんでいた。
 そんな桜も、見とれているうちにすっかりと散ってしまうのだった。そして桜はまた枝だけを残し、そこに出来た空虚な隙間を埋めるためのように、灰色の雲が空を覆い、しばらくの雨を降らせた。
 雲が散り散りになると、どこまでもくっきりとしたブルーが空に広がっているのだった。その下に広がる緑たちはまだその鮮やかさを残して、再び空に目をやると今度は巨大な入道雲が生まれていた。そして蝉の声が互いに呼応するように、一瞬にして増幅し、響いた。
「ここは、四季の移ろいをこうして眺めることが出来るんです」
 そんな声がまた聞こえたが、今度はその方向を向かなかった。既に私は、この広い窓の景色に心を全て奪われてしまっていた。
 蝉の声は波のように引いて消え去った。次にこの雄大な景色の中で広がり始めるのは、少しの黄色と、そして赤だった。紅葉の広がりは池にも写り、その水面でさえも赤く染めあげていた。さらにはその木々の隙間から、地面に敷き詰められた紅葉の葉を踏みしめながら走る子狐の背中が覗かれた。そしてそんな姿を追いかけていれば、すぐに紅葉達は散り終えてしまう。四季とはこうして、消え去るものへの哀悼のために自らを彩り、そしてまた自らが消え去ることをひたすらに繰り返し、移ろっていくものなのかもしれないと思った。気づけば窓の外はまた、冬になっていた。

 私はそんな景色を何周も眺めた。急速に移ろっていくそんな動きは、私にはある種の生物のようにも思え、私はいつまでもそれを見ていようと、じりじりと窓に近づき、瞬きすらも捨てようとさえ思った。
 肩を叩かれ振り向くと、部屋には大量の料理や酒が並べられていた。
「食べたり飲んだりしながら眺めるのも、また良いものだと思いますよ」
 女将に手を引かれ料理の元へと近づいた。箸でつまみ上げる刺身はどれも艶やかで柔らかな弾力を帯びており、舌に乗せると途端に溶けて喉を伝い、優しげな甘みを口の中に広げた。女将に注いでもらう酒も、不思議な安らぎを与えてくれる味だった。
 そして景色はまたゆっくりと、四季を移ろわせていく。
 部屋に煌びやかな衣装を着たたくさんの乙女たちが走り込んできた。彼女たちは窓の両脇の前に立ち、踊り始めるのだった。気づけばどこかから、壮麗な音楽も聞こえ始める。そしてそれらはまた流れゆく四季と溶け合い、混ざり合いしながら、私に新たな景色を魅せてくれるのだった。
 壮大な緑を見せたかと思えば、それは月明かりに照らされ静謐な美しさにも変わる。重苦しい雨は、時折差し込む陽の光のためにその粒を輝かせ、瑞々しい虹すらかける。幾度となく繰り返される四季と言えど、私の目に全く同じ景色を映すことは無いのだった。瞬きをする間にもそれは変化し、移り変わり、その刹那の美を示して過ぎ去っていく。目の前に広がるそれは、輪ではなく、どこまでも伸びる帯のようなものだった。
 私はそれをいつまでも眺めていた。そしていつまでも眺めていたかった。だが私はいつまでも、この場所に留まってはいられない。この部屋に留まり、幾日かが経った頃、私は女将に帰る旨を伝えた。

「どうしても、帰られるのですか」
 私はその景色と同じように、この女将にも、心を奪われていたのかもしれなかった。
「いつまでも世話になってばかりでいるのは、私の生き方に反しますので」
 気づけばそこに亀山君の姿が戻っていた。
「五十嵐さん、残念ですがもう外は、」
「分かっているよ。これだけの四季の移ろいを見ていたんだ。外の世界ではもう、何十年、いや何百年という年月が経っているのだろう?」
 亀山君は頷いた。
「竜宮城。まさにこの旅館の名前の通りだ。そして君は、こうして私を救ってくれたんだろう?世の中に疲弊し、自殺の準備を整えていた私を」
「……はい」
「おそらくはもう、私を悩ませていたものや人なんてすっかりと消え去ってしまってるだろう。だからもう、私は行くよ。……けどこんな綺麗なものを見ることが出来て、自分すらも、こんな美しいものの一部であるのかもしれないと思うことが出来て、私はもう少しだけ、生きてみようと思えた。本当にありがとう」
「……では最後にこれを」
 そう言って女将は、いやおそらくは乙姫様は、私に小さな箱を手渡した。
「たとえありとあらゆるものが移り変わっていたとしても、またそれに類するなにかは、あなたを襲い、苦しめるかもしれません。そしてそれに耐えることが出来なくなった時、これを開けてください」

 私は旅館を後にし、新しい世界の中へと足を踏み出した。それから幾多の荒波や理不尽に襲われることがあれど、私はその中で生きていくことが出来た。そして気づけば私は随分と歳を取り、一人きりの病室の中で、ゆっくりと自分の生命が終わりゆくのを待っているのだった。
 傍らに置かれた箱を手に取った。この箱の存在があったからこそ、私はここまで生きてこれたのかもしれない。そしてそれを開けるとすれば今だった。箱を開けると、そこから白い煙が立ち昇り、ゆっくりと私の身体を包んだ。手のひらを眺めると、その揺らめく煙に溶けだすように、私の身体も少しずつ、煙となっていくのが分かった。煙になった私は病室の開かれた窓から外へと流れ、広がり、その景色の中へ同化していった。
 限りない粒となった私のそれぞれは、これからまた木々の一部となり、空の一部となり、野を駆ける獣やせせらぐ小川となり、時には風となってその最中を走り抜けるのだろう。そしてまた移ろい、私はその中で生きる。
 儚く、輝かしい四季の一部となった私を、きっとあの旅館は、また快く迎え入れてくれるだろう。いつか私を救ってくれたあの旅館から望める景色を、次は私が彩るのである。世界の一部として、四季の一部として、そしていつまでも。

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