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ショートショート【追憶神社】

 その神社は、訪れるたびに形を変える。
 そして百度参れば、どんな願いでも一つだけ、叶えることが出来る。
 たとえそれが世の理を大きく外れたもので、あったとしても。

 その神社は人里離れた土地にそびえる小高い山の、その麓にひっそりと佇んでいた。
 生い茂る木々の枝葉や影に隠されるように、神社へと続く細長い石階段は伸びていた。階段の表面は苔に覆われ、触れずともその湿り気が分かる。
 私は一つ息を吐き、一歩目を踏み出そうとしていた。
 たとえどれほどかかろうと、この百度参りを、やり遂げる決心は既についていた。
「あんた、死ぬ気かね」
 その突然の声は、石階段の脇に座り込む小さな老人のものだった。いつからそこにいたのか、老人はじっと私を見上げていた。
「百度参りだろう?命落とすさね、下手をすれば」
「ということはやはり、ここの噂は本当なんですね。……覚悟は出来てます。そしてもし途中で命を落としたとしても、むしろ本望だ」
 すると老人は胸の袂から小さな袋を取り出し、私に差し出すのだった。受け取るとそれは古びた巾着袋のようで、中には細かな物がいくつか入っている気配があった。
「これは?」
「覚悟があるなら、いつか使う」
 そうしてまた私は口を閉じ、石階段に一歩目を踏み出した。
 百度参りにはもう一つのルールがある。
百度参りの間は、一言も発してはいけない。

 少し階段を昇ると、神社にはすぐに辿り着いた。豪奢な建築も、神主の存在も無い、そこにあるのは小さな本堂が一つだけであり、随分と古びたそれは、もはや朽ち果てた印象を私に与えた。
 一度目の参拝を終えると、すぐに私は石階段を降り、入り口へと戻った。そこにはもうあの老人の姿は無かった。そしてまた私は振り向き、二度目の参拝へと向かい始める。
 石階段に一歩目を踏み入れたその瞬間、視界に飛び込む景色が一気に変貌した。
 足元にはもう石階段すら無かった。目の前にはただ平坦な、田舎道が伸びていた。
 驚き、思わず声が漏れそうになる口元を強く押さえ、止める。
 周囲には田んぼが広がっており、陽に照らされた稲穂の群れは風に吹かれ、黄金色の輝きを弾けさせる。そしてあぜ道の少し向こうに、また本堂が立っていた。

 三度目は公園、四度目は渓流など、その景色が変わるだけで、特に本堂まで辿り着く苦労は無かった。だが唯一不思議なことがあるとすれば、その景色らにはどこか、私をくすぐるような何かがあった。
 さらには次第に、本堂まで辿り着くに必要な時間や手間が長くなっていくのだった。歩くのに難儀な泥道や、雪道、そして十五度目を過ぎた頃、目の前に現れたのは、多量の木々が生い茂る森の入り口だった。
 その森の中では、少しでも気を抜けばすぐに迷い、全てを見失ってしまうことは自明だった。一歩ずつ注意深く、歩きながら私は思う。やはりこれは少しずつ、本堂までの難度が上がっていく仕組みのようだ。
 さらにはまた、不思議なことが起こっていた。木々の隙間を縫うように歩く私は、気づけばもう何の意識も無く自然にするすると、先へ先へと歩を進められているのだった。そしてまた気づく。私はこの森を知っていた。何度か同じようにこの森道を、歩いたことがある。
 次に現れたのは小学校の校舎であり、どうやらこの中のどこかにある本堂を探さなくてはならないらしい。この校舎は間違いなく、私が通っていた校舎である。
 そうして今まで私の何かをくすぐっていた正体がはっきりした。百度参りの度に目の前に現れるのは、私の記憶の中の景色に他ならなかった。あの田舎道も渓流も森も、思えば幼少期を過ごした場所である。
 それは次第に本堂までの道のりを厄介なものへと変えながらも、少しずつ現在へと近づき、新鮮な思い出を私に想起させる。

 五十を越えた頃に現れたのは、もはやここ五年から十年の間に訪れた景色だった。
 切り立った崖を繋ぐようにかけられた吊り橋、一歩進むたびにそれは大きく揺れる。
 ひたすらにどこまでも続いていく石階段には、夥しい数の赤い鳥居が連なっていく。
 また激しい飛沫を巻き上げ、身を震わすほどの轟音を響かせる大滝では、本堂はその丁度裏に立っており、私は滝に飛び込むしかない。 
 ほとんど道の無い木々とぬかるみだらけの湿地帯、無理な体勢を取りながらなんとか進んでいく。確か本来であればこの先には樹齢千年を越える大樹があった。
 足元には雲が漂い、よく見ればそこは山の頂上付近である。あの時と違い今は随分と軽装備だ。近いようで遠い頂には、米粒のような本堂が見える。空気は薄く、息が切れ、いつまでも辿り着かない。
 この百度参りは、途中でやめてしまう者がほとんどであるという話だった。だがそれも今となっては、痛いほど分かる。後半に差し掛かり、本堂までの道のりが辛く、厳しく、時には痛みさえ伴うことがほとんどとなってきたが、苦しみの本質は、そこではなかった。

 目の前には川、そしてカヤックが置かれていた。
 そういえばそんなこともしたなと思う。私は乗り込み、オールを手に取る。オールはもう一本置かれていたが、今は使い様が無かった。
 オールに力を込め、漕ぎ始める。今はもうただ、一心不乱にその腕に力を注ぎこみ、この川を下った先にある本堂を目指すしかない。残りはもう十を切っている。
 漕ぐ度に巻き上がる飛沫が身体を濡らし、強い流れはカヤックを揺さぶり、油断すれば簡単に転覆してしまう。
 そんなスリルに、あの時はただ単純に歓喜の声を上げていればよかった。だが今は、時折目に映る川魚の影や、葉や梢の隙間から漏れ入る光さえ、目障りでうっとうしい。
 小休憩のような緩やかな流れが訪れると、川面にうつった自分の姿が見えた。たった一人の私。もう隣には妻がいないということを、嫌でも思い知らされる。
 思えば妻と出会ってから随分と多くの旅をしてきたものだと、この百度参りで様々な景色と記憶を巡る度、気づいた。
あともう少しだった。もう少しすれば、また妻に会える。

 九十九度目、私は暗闇に包まれた。
 どれだけ待とうとも、何の変化も無い。私は前に進むしかないと、歩き始める。
 単調で平坦な道がどこまでも続き、自分がどれだけ歩いたのか、さらには時間の感覚も何もかも、次第に薄れ、周囲の闇にそのまま溶け去っていくのが分かった。そしてこんな暗闇の思い出など、果たして自分にあっただろうか。
 また、ただひたすらに暗闇が続いていくだけのこれが、九十九度目の難易度かと、甘い考えが一瞬よぎった後、すぐにこの道の意味に気づいた。
 何も見えないこの暗闇の中では、自分自身の思考を、見つめるしかない。
 そうなれば思い浮かぶのは、ただ一つしかなかった。
 二人で訪れた様々な旅路とその景色、それらを背景に、いつだって妻は笑っていた。その笑顔は鏡写しのように、私にも同じ笑顔をくれた。いつまでも続くと思っていた。まだまだ一緒に訪れたい場所があった。行きたい場所があった。もっと一緒に、いたかった。
 どうしたって、そんな思いが巡り続ける。思い出や輝かしい記憶は、拷問の形を成して私に食い込み、激しい痛みと苦しみは溢れ続ける。一瞬でも気を抜けば、この暗闇の中で私は嗚咽を漏らしそうになっている。
 その時目の前の暗闇を切り裂くように一本の光が、甲高い鳥の声に似た音と共に、緩やかな線を引きながら空高くへと、伸びていった。
 そしてその光線の先がふっと消えたかと思うと次の瞬間、大輪の光が一気に弾け、広がり、少し遅れ一撃の轟音も破裂し、その光景は私の視界を満たした。それはまた、妻と二人眺めた花火の景色に他ならなかった。
 泡沫の夜花は一発、また一発とその光彩を消し去りながら新たに打ち上がる。その一面の連なりは、きっと美しいのだろう。
 だが今、私の目に映るその景色や光は、全て滲み、まともに見ることなど出来なかった。
 あれからどれだけ流そうとも、目の奥から溢れ出す涙が、絶えることなど無いのだった。
 それからいつ、その本堂に辿り着いたのかは覚えていない。けれどあと、一度で百度だった。

 目の前に広がるのは、広大で穏やかな川だった。だがどれだけ記憶を探ろうとも、どこにも覚えなどは無かった。
 遠くに見える向こう岸には、花畑が広がっているようだった。その花畑の中央に本堂は立っている。
 そういうことかと、私は懐から老人に貰った巾着を取り出す。口を開けると、中に入っていたのは六文銭だった。
 前方の河原には一艘の渡し舟が泊まっており、小柄な船頭が一人乗っている。笠を深くかぶったその顔は全く見えないが、近寄り、私はその船頭にそっと六文銭を差し出す。
 舟に乗り込み、船頭は舟を漕ぎ出す。
 向こう岸に一度渡れば、もう二度とこちら側へと戻ってくることなど出来ないのだろう。だがそれがなんだというのか。やっと、やっと会える。それだけで十分だった。それだけが全てだった。
「……綺麗ですね、景色が。このままどこまでも行ってしまいたいぐらい」
 最後の試練のつもりか、船頭は口を開くが、私は何も返さない。ここまで来て、終わるわけにはいかなかった。けれど私の心は激しく揺れ動いていた。その声を、私は知っている。
「大変だったでしょう。ここまで来るの」
 そう言うと船頭は、頭の傘を外した。
「……どうして、」
 気づけば口から、声が漏れ出ていた。そこに立っていたのは、紛れも無い、妻だった。
「本当に、ありがとね。けどダメだよ。まだ来ちゃ」
 薄れゆく意識の中で、その笑顔だけが、いつまでも映った。

 目を覚ますと、そこは一番初めの石階段の前だった。
「だめだったかい」
 見れば老人がまたそこに座っている。
「……はい。みたいです」
「挑戦できるのは一回きりさね。残念だけど」
「はい。なので、もう帰ります」
 妻を生き返らせたいという当初の願いが、叶うことはなかった。
 けれどその一方で私はもう、満たされていた。

 久しぶりに緩んだ頬が、僅かに痛む。
 だが今痛むのは、その頬だけだった。



続いてはこちらを是非。

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