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主成分は事実か主観か

 いろんな人のnoteの記事を読んでいて、その人がなにを記録しているかがなんとなく透けて見えてくる。

 僕は日記やエッセイを主に読んでいるのですが、そこで記されていることは大きくわけて2つだった。

 出来事なのか主観なのか。
 出来事=事実である。客観的にわかること、すなわち数値や固有名詞を使って表される文章だ。そして、主観=感じたこと、考えたことだ。

 それは書いている内容とは必ずしも一致しない。
 なぜなら、事実と主観がない混ぜになっているからだ。

「今日、水族館へ行った」なら事実。
「今日、水族館へ行って、楽しかった」だと事実と主観が混じっている。

 論文でもなければ、両者は混ぜて使われているだろう。僕達はそういう文章を毎日目にしていて、自分でも書いている。そうして事実と主観の境目がわからなくなっている。

 だから、両者をしっかりとわけて認識していく必要がある。なぜかといえば、わけて考えられなくなった人から自分の主観や観念に翻弄されて、病んでいくからだ。事実は簡単には形を変えないけれど、主観は針金のように簡単にねじれ、ゆがんでいく。
 境界線を見失ったら、ゆがんだ認知を事実だと思い込んでしまう。

「自分が休むと、仕事が回らなくて大変なことになるから休めない」
「あの人は自分にだけ無愛想だから、嫌っているんだ」

 といった具合に。

 ここで、なにを記録しているかに戻ってくる。
 noteでもtwitterでも、ブログでもなんでもいいけれど、そこに書いている情報の種類は事実か主観かどっちだろうか? 混ざってるなら、主成分はどちらだろうか?

 身体から取り出して、それを言語化したり、絵に描いたりすることで、情報は強化される。だから、主観ばかり記録していると、浮世離れしていくし、事実ばかり記録していれば不感症になっていく。

 今日、ふと気づいた。僕は主観と事実を分けて、記録していた。事実は毎日のグラレコの筋トレで、主観はいま書いているこのような雑記において、記録している。

 両者のバランスが取れていると、大きく心が乱れることはない。少なくとも僕はそう実感している。
「これは本当にあっているか?」と常に問いかける自分がいるからこそ、いまも感じたこと考えたことを安心して書けるのだ。

 意図して始めたわけではないけれど、期せずしてそうなっていた。
 心地よいので、このバランスを取り続けていきたい。

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