巻き込まれないために答えない
感情が暴走すると、その人の身体に収まり切らずに、飛び出して周囲の人まで巻き込むことがあります。
それは無意識的なことなので、巻き込まれる方もなかなか気づけないままいつの間にか翻弄されてしまいます。
どんな人格者であろうとも、感情的になっている時はあまり触れない方がいいでしょう。どうしても関わり合いにならなければいけない時は、それなりの覚悟と自分をしっかり保っておくことが必要です。
それを思い知らされる出来事がありました。
友人からの電話
久々に友人からの電話がかかってきて、出たと同時に旧交を温める暇もなく愚痴をまくしたてられました。
友人の名誉のために詳しい内容は伏せますが、要約すると不安から余計なことをしてしまい、自分にも他者にも疑心暗鬼になって憔悴しているということでした。
感情に溺れた言葉の数々に、昔の僕ならばあっという間に引き摺り込まれていたと思いますが、幸いにしてインタビューゲームなどでトレーニングしてきた今の僕は巻き込まれずにすみました。
後で振り返ってみても個人的に見事な対応だったと思ったのですが、なにがポイントだったのかを不思議に思ったので振り返ってみました。
事実を確認する
どことなく陰湿で浅い感情に振り回されている時というのは、冷静に物事を判断できないので、都合良く、あるいは都合悪く現実を認識します。
認知のゆがみが生じている状態の言い分を、そのまま鵜呑みしてしまうともう既に足を掴まれてしまっているので、一体なにが事実でなにが事実でなにが思い込みなのかを整理することが必要になります。
僕が今回友人にした対応は、確定事項のように言うことにいちいち疑問を呈することと具体例を求めることでした。例えば、
「Aは嫌な奴なんだけど、そのAがこの前さ……」
と言われたら「Aさんって嫌な人なの?」「これまでにどんなことされたの?」と尋ねるわけです。
「僕は〇〇と感じている、思っている」と言っているうちは自分の主観であることを認識しているのですが、主観を事実と混同していることが問題なのです。
だから、具体例を出してもらうことで「なにが起こったか」がわかる。そして、それと同時に「本人がどう感じていたのか」がわかります。
それを繰り返すことで、引き込まれないままに事実や関係性を捉えることができます。
どちらも不正解の◯×クイズ
テレビのバラエティ番組で、野外でやる◯×クイズがあります。
前方に大きく「◯、×」と書かれたハリボテがあって、クイズが出されたら正解だと思う方の壁に走って飛び込むのです。
正解だと壁の向こうには体操マットが用意されていて、不正解だと泥沼に身体ごと突っ込むことになる。
正解がどちらかわからないドキドキ感と不正解だった時のわかりやすい反応がおかしさを生み出すのでしょうが、どちらも泥沼だったらどうでしょう?
もし、自分が回答者だとしたら、とても理不尽な気がしないでしょうか?
どちらかには正解があると信じていたのに、裏切られた感じがします。
文字通り、顔に泥を塗られたような気分になります。
けれど、感情に支配された人間は時々そういうことをします。
「君だったらどちらにする?」
憔悴した友人が自分の状況を説明した上で僕に問いかけました。自分と同じことをするかそれとも別のことをしたか?
僕は「答えたくない」と返事をしました。
今の君はどちらと答えても誰かを否定するための理由に使う。
自分と同じことをすると言ったら、相手を悪者にする。
自分と違うことをすると言ったら、自分を愚者にする。
君の目的は僕の意見を仰ぐことではなくて、結局誰かを非難するための材料を引き出すことだ。だから、答えたくない。
そうしたら、友人は黙りました。
僕は決してその友人のことをが嫌いではないですが、それとこれとは別です。友人だから巻き込まれてあげなければいけない理由はどこにもない。
泥沼とわかっていて突っ込む必要はありません。
素直な人ほど、用意された選択肢の中から選ばなくてはいけないと思いがちですが、相手が用意した選択肢から答えるだけでなく、自分で選択肢を用意できるということを覚えておく必要があると思います。
それが今回の僕にとっては「答えない」ということでした。
時間をかけて話を聞くうちに最後にはようやく落ち着いて、「ごめんね」と言ってくれたので、僕も一安心でした。落ち着いた状態ならちゃんと話ができる友人です。
罪を憎んで人を憎まず。
気をつけることはいくつもありますが、1つの出来事だけでその人のことを好きとか嫌いとか判断せず、ありのままのその人と向き合うことが一番大事なことかもしれません。
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