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人間になっていく過程

らくだメソッド」という、算数・数学プリントをやっています。1日1枚のプリントをやるという簡単なようで難しいものに取り組み、その中で感じたこと、考えたことを振り返る試みをしています。
 これは4年9ヶ月が経過しての振り返りです。

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 らくだメソッドの学習を始めた当初から、3ヶ月ごとに毎回振り返りを書き続けてきた。3年3ヶ月の振り返りを書いた時から定期で書くのをやめ、気づきがあった時に、散発的に書くスタイルに変えた。

 それをいま、あえて腰を据えて書くのは2020年08月18日に高校2年生の単元を終えたからだ。自分の記録表を見ると、2年生を始めたのは2018年6月3日だ。約2年3ヶ月かかった計算になる。
 この数字を2年3ヶ月『も』と捉えたり、『しかかからなかった』と捉えたりするのは評価と観念の世界から抜け出せていない。事実を事実として捉えるのはこれまでも散々やってきたので、その話は置いておこう。

 この期間中を振り返ってみると、半年近くほとんどプリントをやっていない期間がある。週に1度寺子屋塾に行った時だけプリントをやるので、次取り組む際には忘れていて、ずっと足踏みが続いていた。

 その後も、毎日継続していたわけではない。実際に取り組んだ日数でいえば、1年強くらいになるだろう。
 明らかに1枚のプリントを合格するまでの枚数は多くなった。1枚あたりに取り組む時間も20分を平気で超える。初見では合格できず、一番多い時は同じプリントに10枚以上かかった。次々と新しい公式が出てくるので、混乱してプリントを前後する機会もあった。

 一言で総括するなら、大変だった。

 学生時代の勉強や、仕事とは違う。外から評価や実績、対価をもらえるわけではない。そんな状況で、自分にとって難しいと感じる課題に取り組み続ける。やる気でどうこうできない。

 近年、世間で言われる「やりたいことをやる」も、実は同じじゃないだろうか?
 強制力はなく、報酬も保障されていない。楽しさやワクワクで飛び込んでも、続けた先には困難も待ち受けている。モチベーションの武器一本じゃ立ちうちできないのだ。

 だから、僕は続けるためになるべく無に近い状態で取りかかるようになった。
 面倒と感じることも、意気込むこともない。
 やったから自分を褒めるわけでもなく、やらなかったから自責もしない。
 今までは、頭の片隅で「今日はプリントやってないな」と引っかかっていたけれど、最近はそれすら手放せるようになってきた。それでも、約8割の頻度でできている。
 この確率がもう少し上がればいい。ただ、それも意思に任せてやるのではなく、自分の状態を整えて、呼吸をするように淀みなく、自然に取り組んでしまっているようにしていきたい。

檻の中から飛び出す

 この期間中、印象的だったのは、「解けるけれど、わからない」状態に何度か陥った。公式を使えば、問題は解ける。けれど、公式がどのようにして成り立っているのかわからない、あるいは1度理解してもすぐに忘れてしまうのだ。

「それでいいのか」と囁く声があった。
 答えの用意されている問題は解ける。けれど、答えはもちろん問題すらも、僕達の人生において与えられない。問題意識は自らが持たねばならず、ただ1つの正解が存在する場合の方が珍しい。
 役に立つ道具=公式だけを持っていて、なにになるのだろう?

 そして、公式を知っていてもあまりにも多過ぎる。後になればなるほど1つでは足りないので、複数組み合わせて使う際に、どの公式を選んで使えばいいのかわからなくて、混乱する。

 動物園のサルになったような気分だった。
 大自然に比べて、狭い檻の中での生活を強いられている。食べるものには困らないし、不自由しているわけではない。ただ、金網の向こう側には広い世界が見えている。

 まず、根本的に外に出たい気持ちが湧いてくるか否か。わざわざ変化を求めなくたって生きていける。であるならば、そこに留まっていたっていいのだ。

 その上で、出たいと思う。
 檻の中にある道具で使えるものはないかと探し始める。檻の中に転がった缶切りやパイプカッターなどの道具の数々は金網を切断することに結びつけられなければ、ないのと一緒だ。
 たまに怪我をしながら、落ちている道具でなにができるかを試行錯誤しながら、やがて方法を見つけて外に出ていく。

 そうやって、人間になっていく。
 自分の中の欲求を見つけ、様々な側面、論理的な部分も感覚的な部分も折り合いをつけながら、道を作っていくのだ。

理解を目指さない

「理解」を、僕達は神格化し過ぎている。
 わかりさえすれば、物事は解決できると思い込んでいる。けれど、親しい人が亡くなった時、「死」を頭で理解できても、納得できない場合もある。

 らくだメソッドにしたって、原則1日1枚やるのだから、決めたことはやった方がスッキリするのはわかっている。けれど、やらないのだ。

 日常生活においても、僕達は他者のことを必死に理解しようとする。しかし、家族も含めて、あなたは「自分の全てを理解してくれている」と思える人がいるだろうか?
 僕はいないし、死ぬまで現れないと考えている。同じ人間でない以上、理解には限界があるからだ。幸いにも、理解できなくても受け入れることはできるし、納得できる力が僕らにはある。

 だから、「わからない」でいいのだ。
 ただし、「わからないまま」でいいとは思っていない。

「わからないまま」は停滞であり、そこで閉じている。「わからない」はいまの状態を把握する行為であり、その先が開けている。

 人間には三大欲求と同じように、未知なるものや難解なものに出会うとわかりたい、理解したいという内なる働きがあると思う。

 できる、できない。
 わかる、わからない。
 好き、嫌い。
 様々な出来事に僕たちは一喜一憂するけれど、興味を持ち、向き合い続けていれば、だいたいは望む方向へと傾いていく。わざわざ力んで、まっしぐらに理解を目指さず、関心を向けていくことだ。

これから

 さて、ここから高校3年生の単元。

 何年かかるだろう? 最後までやり遂げられるだろうか?
 不意に、そんな問いが浮かび上がってきた。

 問いを持つことで、僕達は自由になれる。しかし、どうなるかわからない問いの回答を考えるのは、時間の無駄だ。まともな答えは出てこないし、出せたところでなにも変わらない。

 苦悩してしまうのは、余分な思考、癖を着ぐるみみたいにたくさん着込んでいるからだ。そんな状態で次へ次へと動き回っていたら、当然身体はバテてしまう。

 幸いにも、獣の毛皮と違って、着ぐるみは脱げる。
 栓なき問いをやめる。変えられないものを、考えるのをやめる。そうやって毎日プリントに取り組みながら一枚ずつ剥いでいって、着ぐるみから人間になっていくのだ。



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