木になってみたら、安心する
今日「木になってみよう」と突然言われて、木になってみた。形を真似るというよりも木のあり方をやってみる。
リラックスして、地面に根づいて、立つ。
そういえば、木には目がないので、目を閉じてみた。
すると、つながりが失われた気がして、不安になった。視覚を奪われたことで、身の周りになにがあり、起こっているのかわからない。真っ暗闇の中で、ポツンと自分が立っている感じ。
目を瞑る機会は日常でもある。寝る時はもちろん瞑想をする時だってある。では日常においてなぜその繋がりの喪失を感じなかったのだろう?
それは、日常で目を瞑る時、自分の周りのことをあまり意識しないからかもしれない。瞑想も就寝時もどちらかといえば、内へと向かっていく。
ああ、自分は視覚を入り口にして、環境と関わっていたのだなと思った。自分を取り囲むあらゆる人、もの、ことを「他者」として、他者を感じるのに目に頼り切っていた。色や雰囲気、距離感までなんでも見るばっかりだった。
だから、視覚が失われた時、心細くなった。
ただ、長くは続かなかった。裸足に伝わる地面の凹凸や肌を焼く日差し、蟻が足を駆け上ってくるくすぐったさが僕を飽きさせなかった。子どもや風の声も耳に届く。見て捉えることはできないが、そこにあると感じられた。
そういえば、木には耳もついていない。だから、両手で耳を塞いでみた。そうしたら、自分の呼吸の音が聞こえた。
生きている。
繋がっている。
失われたように思えることは、一部分に過ぎない。機械ならば、部品一つないだけで動かなくなってしまうけれど、生物はなんらかの形で補完される。喪失を恐れない。その先には必ず補うものがある。
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