7年続けてみて、全体を振り返ってみる
7年という歳月をかけて、1つのことをやり続けてきました。紆余曲折ありましたが、自分が1番最初に目指したゴールには辿り着きました。
これまで折に触れて、振り返りを書いてきました。今回、その最終稿を書きたいと思います。
僕がやってきたらくだメソッドについてはこちら↓
話題が幅広くまた長くなるため、「全体の総括」「学ぶことについて」「続けることについて」の3回に分けます。最終回は「全体の総括」です。
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いつでもやれる
小学2年生の単元から始めて、高校3年生までですから11年分の学習をしたことになります。学生のように勉強に専念するような環境ではなく、1日1枚を淡々とやってきました。
「1日1枚」はあくまでも前提であり、僕の最長記録は152日連続です。1ヶ月近くほぼやらない期間が何度かありましたし、今も毎日やっているわけではありません。
ただ、何度途切れようとちゃんと最後まで辿り着きました。
かつての振り返りでも書きましたが、僕はちゃんと継続してきたことがありませんでした。スポーツや習い事もお遊び程度にやっていたくらいで、自分でやろうと思ったことも大抵は1ヶ月も経たないうちになかったことのようになっていました。
それが7年ですから、個人的に誇らしいことです。
正直なところ、この継続がらくだメソッドのおかげか、と言われればそうとも言えません。僕が物事を続けられるようになったタイミングがたまたまその地点だったのかもしれません。同じ頃に始めたヨガも続いていますし、ファシリテーターとしての学びも続けられています。ただ、その一因であることは間違いありません。
前回の振り返りを書いたのが6年の時でした。その後の1年間、大きな波はなく、できたりできなかったりを繰り返しながら、淡々と取り組んできました。
正直なところ、最終段階の微分積分はとても難しく、完全に理解したとは言い難い状況です。それでも、とりあえずクリアの基準は満たしたので先に進むことを選択していました。また、後ほど学び直したいと思っています。
最後の2、3ヶ月間、ほぼ毎日プリントに取り組んでいました。
モチベーションが上がったというよりも、生活リズムが乱れがちだったために、自分の軸を安定させる必要があって、プリントに向かっていたのでしょう。この期間、朝にやったり夜にやったり、時間はまちまちでした。これは僕にとって非常に大きな変化でした。
かつての振り返りで、習慣からの脱出について書いていました。
習慣のおかげで継続できている。しかし裏返せば、その習慣から外れてしまえば、できなくなる不自由を抱えることです。
だから、因果に関係なくできることが自在なのではないかと考えていました。それが今、できるようになっているわけです。
やると決めたことを当たり前にできる。それは清々しいです。
過去の自分の言葉が、問いかけてくる。
この振り返りを書く前に、かつての振り返りを全て読み返しました。
始めた当初の苛立ちと困惑の入り混じったざらついた文、全然やらなくなった時期の投げやりな振り返り、学ぶ喜びを見つけた時の感激を記した文章もあり、多くの段階を経て今の自分があります。
ただ、全てはは全部過ぎ去ったものに感じました。もっと感慨が湧き上がってくるかと思いましたが、かつて紡いだ言葉に対して臨場感がありませんでした。それはもう喉元を過ぎた後で熱さを忘れてしまったのでしょう。
他人事のように感じられるからこそ、それらの文章が自分に問いかけてくるような感覚があります。
もがき苦しんでいた時の、問いの答えを探す必死さが今の自分にはあるか?
ただクリアするのではなく、1枚1枚を着実にやっていく丁寧さを見失っていないか?
ここまで得たものがあれば、失ったものもあります。
積み木のようにただただ高く大きくなっていくのではなく、経年劣化して、衰えた柱は補強する必要が出てきます。そうしなければ、土台から崩れていきます。
そのため何度も同じ課題と問いに立ち返りながら、自分をアップデートしていく必要があるのでしょう。
僕が得たもの
自分がこの7年間で得たものはなんだろう?
そう考えてみたのですが、どれだけ考えても「これ!」と一言で言い表せられる言葉が出てきませんでした。
正直なところ、自分が理想としていたような人間にはなっていません。始めた当初、自信もなく、人と目を合わせていると落ち着かなくなる程度には人見知りでした。記録と振り返りをループしながら学習を続けていく過程で、自信が手に入り、魅力的な人間になれるのではないか?
そんな淡い期待を懐いていましたが、見事に砕かれました。
今の僕は、全くそうなってはいません。
けれど、別に僕は過去に思い描いた理想に、憧れがなかったことに気づきました。自分が正しいと信じて疑わないことも、他者をぐいぐい引っ張っていくカリスマも、僕は必要としていませんでした。それよりも、自分の過ちに気づき、そこから目を背けずに学び、変容する人間になりたかったです。
つまり、僕は理想郷を見つける探検に出かけていたのではなく、本当に求めているのはなんなのか自分の内を掘り進めていたのでしょう。生きている中で、何層にも折り重なった自分の思い込みを掻き分けて。
よくわからないものには、手を出さない。
かつての僕の行動原理はそこにありました。不安だし、不明瞭だし、悪いことが起こるかもしれない。だとしたらやらない方が安全だ。
けれど、そうやって距離を取ったまま、ある日突然わかる日がやってくるのでしょうか?
よくわからないから、やってみる。
わからないから触れてみて失敗してみないといけない。そこで初めてスタートできる。そういう思考が少しずつできるようになりました。
リスクはあります。ただ、種類が違うだけでどんな選択にもリスクはつきまといます。
他者は安全を保障してくれるかもしれません。あるいは、補償をしてくれるかもしれません。けれど、最終的に選択と行動を起こすのは自分である以上、どのリスクを引き受けるかを選択する必要があるのでしょう。
「僕はあの人みたいにできない」
行動力がある人を見て、いつも内心では頭を掻きむしっていました。
それが最近「私は本田さんみたいにできません」と面と向かって言われて、笑っちゃいました。
別にだれかと同じように生きる必要なんてどこにもないのに、頭だけで考えるとやっぱりそうなっちゃうんです。
きっと、ここまで読んできた人も、僕が言っていることの意味がよくわからないと思います。それは、あくまでもこの体験が僕のものである証拠です。どれほど上手く抽象と具体を行き来して、簡単な言葉を使ったとしても、体験していない人にはわからないことがあります。逆に、理解してからでないとできないなんてことは、すぐに思いつきません。
やりながら理解していけばいいじゃないですか。
少なくとも僕はそう思えるようになりました。それが得たことなのかもしれません。
あとは、呼吸がしやすくなりました。
緊張で手がベトベトになることは少なくなりました。
苛立ちや怒りを覚える時間は格段に減りました。
以前よりも、自然に笑えるようになりました。
安心して自分の話ができる相手が増えました。
わかりやすい変化はそれくらいです。
終わりに
始めて1年の振り返りに以下の文章を書いていました。
明らかに格好つけた問いで、痒くなっちゃいます。けれど、過去の自分が投げかけた問いに、答えなければいけないと思っています。
正直なところ、まだ答えは出ていません。
一応プリントを惰性で続けていますが、今はちょうど1週間ほどお休みしています。
ここで止めるのもありだと思っています。
高校単元のまだ理解が甘いところをやり直すのもいいでしょう。
簡単な単元に戻って同じプリントをひたすらやり続けてみるのもありかもしれません。
もう、どの選択をするのかはあまり重要ではなくなっています。
焦るものでもないので、じっくり考えてから答えを出したいです。
さて、長々と読んでいただきありがとうございました。
終わったその日から書き始めたのに、2回空中分解して、0から書き直しました。かなり難産の振り返りになりましたが、大きな区切りとなるので、なんとか形にできて一安心しました。
最後に、有料であとがきのようなものを書いておきます。
内容はここまでなので、読む必要は全くない蛇足になりますが、興味のある酔狂な方はどうぞ
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