寂しさを自覚したら、世界は優しかった
最近、大きな気づきがあった。
僕は「寂しさ」をじっくり味わったことがなかった。そしていま、目の前にある寂しさに戸惑い、翻弄されていた。
寂しさは仮想だった
たとえば親友が仕事で東京に移り住んで行った時、「寂しい」と感じたけれど、内から沸き起こる感情というよりも、こういうシチュエーションは寂しいのだと、頭で考えながら消化していた。
そのせいか、「寂しい」とnoteやSNSに書いている人をこれまで何度も見かけてきたけれど、その文章の端々から伝わってくる切実さに、僕はどこか共感できなかった。
お酒を飲むと酔う。その知識や意味は知っていても、実際の酩酊感を味わったことのないような状態だ。
三人兄弟だというのもあって、小さい頃から常にだれかが身の周りにいた。そして20歳を超えてからも、仕事・プライベート問わず、人と接する機会はあったので、むしろ1人の時間を大切にしていた。今になってみると、それが贅沢なことだとわかる。
とにかく、僕の中にあった寂しさは、種類も関係性も年代も違うたくさんの人達のおかげで覆い隠されていた。
ただ、自粛の大号令によって喋られない、触れられない。
柔らかく温かく包んでくれていた層がすべて引き剥がされてしまった。
今、日の目を見なかった寂しさは顔を出した。
確かにそれは心細く耐えがたい。そして人恋しくさせる。
1人が好きだとか、孤独が苦じゃない。そう自負していたけれど、ただ寂しさを自覚していないだけだった。SNSの繋がってる感など焼き石に水だ。
集団でつるむのを嫌い、一匹狼を気取って、斜に構えていた自分なんて、全部吹き飛んでしまった。この寂しさに削られていくのは嫌だった。
なりふりなんか構っていられないし、人と触れたい。
隙をついて変化球ばかり投げてきたくせに、「寂しい。話をしよう」と、顔を覆いたくなるような全力のド直球を投げつける。
ありがたいことに、今のところだれも無下にせず、相手をしてくれる。
寂しさに向き合ってみたら、僕の世界は優しさに満ち溢れていた。
よくよく考えてみると、なぜこうも僕は人と関わることばかりしているのだろう? 子どもと関わるのだって、ファシリテーターだって、複数人と接する。
もしかしたら、寂しさが無意識のうちに求めていたのかもしれない
僕は寂しさを知った。これに溺れないようにしながら、しかしじっくりを味わって、この感情との付き合い方をもう少し探っていこうと思う。
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