向けられた怒りを受け止めなくてもいい
人のむき出しの怒りに久々に触れた。
うなじのあたりがチリチリと熱くなり、手が小さく震えた。
怒りって、こんなエネルギーを要するものだったんだと思い知る。
事の発端は連絡不行き届きだったのだけど、システム的なエラーが原因であって、別にだれかが悪いわけではなかった。
けれど、相手の視点から見れば、自分がないがしろにされていると感じても仕方のない状況だった。
怒りというのは不思議なもので、知らぬ間に蓄積されていく。本人以外にはよほど気をつけていなければ気づけない。そして、なにかのきっかけで爆発するのだ。
爆発するということは関わる人=自分も相手も、傷つけるということだ。
僕も決して良い気分ではなかったけれど、怒りを爆発させた相手の方も不快だっただろう。やりとりを終えた後で、少し申し訳ない気持ちになった。
……まもなく、ふと気づく。
なんで申し訳ないのだろう?
僕は怒りを自分に向けられたから受け止めなくちゃいけないと思っていたんだ。
でも、そんな必要はなかった。いや、やりとりの中で事実として受け止め、修正すべき点はあった。
しかし、相手の「怒りの感情」を吸収する必要なんかどこにもなかった。相手の感情は本人が向き合うべきもので、それは僕が背負うべきものじゃない。
にも関わらず、サンドバックよろしく自分が向けられたからという理由だけで受け止めるのは、自分の弱さであり、傲慢さだった。
アドラー心理学の「課題の分離」がまだまだできていないのと、自分ならなんとかできると心の奥底で思っているのだ。
他人の感情を吸い尽くして病んでいく人達は、こんな気分なのだろうか?
おそらく、自分に飛んできたものは受け止めなければいけないという信念があるのだろう。
怒りも悲しみも、嫉妬も受け流したっていいのだ。そして、受け止めたいと思うものを受け止めればいい。その選択権をまず自分に取り戻すことから始めよう。
僕もまだまだだな。最近、良い流れがきていたけれど、こういう出来事によって我に返る。一歩ずつ訓練を始めよう。
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