「感動させる力」はない

「私、人を感動させたいんです」

 そういうことを口にする人はしばしばいて、どうも僕にはしっくりこない。

 人の心を動かすことってできないんじゃないかと僕は思っている。「動かす」ものではなくて、見て聞いた人が「動かされるもの」だからだ。主語は受け手。

 だから、発信者に心を動かすことはできない。それは下心のあざとさが相手に伝わるから、といった話ではない。

 Aさんがだれかの心を動かしたくて、「大好き」と言う。それに感動するBさんと感動しないCさんがいる。Aさんに感動させる力があったとするならば、Cさんだって感動させることができたはずだ。

 だから、Aさんに「感動させる力」があるのではなく、実はBさんに「感動する力」があるのだと思っている。

 どんな素敵な音楽や文章があったとしても、それに触れないことには感動できない。だから、まずそれを触れにいく行動を起こさなくてはいけない。そして、そのなにかに触れている最中に心にひっかかるものがある時、心が揺さぶられる。ただ、そのひっかかる場所はやっぱり1つじゃなくて、同じように感動している他者とは異なっている。

 だから、感動するというのは受け手の中で起こる落雷のようなもので、外からその天候を操ることはできないと考えている。

 こんなことを書くと夢も希望もないと言われるかもしれない。けれど、むしろ僕は希望に溢れていると思っている。

 なぜなら、「人を感動させる特別な力」があるわけではないのだから、それは一握りの人に許された特権ではない。「感動させる」ことはできなくても「感動してもらう」ことはできる。

 しかも、それは別に「素敵なこと」をしなくてもいいんだ。自分の日常を綴ったり、なんでもない「好き」と言ったりするだけで、感動してくれる人がいる。 
 それは希望に満ちた話だと思う。

 ただ、そのためにはまず書いたり、奏でたり、表現したりする必要はあるだろう。

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