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哲学対話に参加してきた。

 教師塾さん主催の哲学対話というものを体験してきました。

 どれだけ哲学について知っているのかという知識のひけらかしではなくて、あるテーマにおいて自分の体験と思考から言葉を交わすというものだと感じました。(※正確な定義や方法については動画がありましたので、そちらを確認ください)
 前々から話には聞いていたのですが、哲学対話に参加するのは初めてです。

 いくつかの対話を行った中で、最終的に「普通とは?」に関して全体で話し合いました。

 あえて僕の「普通とは?」については書きません。
 それを書いてしまうと、この文章を読んだ人が、僕の意見に賛成か反対かの視点で読んでしまうから。ここで書きたいことは、哲学対話の現場で起こっていたこと感じたことについてです。

 さて、僕は自分が普通であるとは思っていません。だから、その問いに決まった時に全然しっくりきていませんでした。不満ではなく、「なにを皆さんそんなに『普通』を気にしているのだろう?」という疑問を懐いていました。
 だから、途中で参加者のみなさんに対して、「自分のことを普通だと思いますか?」と問うてみたら頷いたり、逆に問いが返ってきたりしました。思わぬ質問がくると、こちらも答えなければと思うので、自分の中に答えを探します。

 言葉が意味を変える時、あるいは新しく拡張される時、人は黙り込んでしまうんだなと思いました。

「そもそも〇〇って?」と考えることは、とても面倒なんですよね。終わりがない迷宮に踏み込んでしまうから。けれど、それが無駄と切り捨てられるかと言われたら、そうじゃない。

「そもそもの意味=前提が変わる」なんてことが起これば、ピンチはチャンスになるし、幸福は不幸になる。だから、面倒ではあるけれど、そこに飛び込めば自らの世界が一変する可能性を秘めている。

 ただ、自分だけの視点ではなかなか変えることも難しく、だから他者の視点を借りるために哲学対話をやるのでしょう。

 骨太の内容ではありますが、主体的に参加できる人にとっては視界が開けていくものだと思います。全国各地で大小哲学対話のグループがあるそうなので、興味がある方は是非参加してみてください。

読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。