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言葉が通じる虚しさ

 幼稚園児と接する機会があると全然言葉が通じなくて、最初絶望的な気持ちになる。けれども、通じないことさえ受け入れてしまえば、少しでもこの子がなにを思っているかを感じ取ろうという気になる。

 そうして、ふと一見脈絡のない言動の中につながりを見出すことができる。すると、動物のように見えた子どもからもきちんと反応が返ってくる。心が通じ合ったような気がして、笑顔を交わす。

 そうした非言語的なコミュニケーションをした後で、大人と話すとどうしようもなくもどかしさを感じてしまう。
 自分が伝えたいことがなかなか伝わらない。必死に言葉を紡いでも、重ねれば重ねるほど相手の頭の後ろに浮かぶハテナマークが濃くなっていく。頭を切り開いて直接脳に話しかけた方が早いのかもしれない。
 そして、それは一方的なことではなくて、他者も大なり小なり僕に対して同じことを感じているのだろう。

 なまじ言葉が通じてしまうから、わかりあえるなんて思ってしまう。
 同じ言語を使っているから頑張って伝えれば、きっと相手はわかってくれるんじゃないかと幻想を懐いてしまう。
 けれど、結局のところどれだけ言葉を尽くしたとしても、全てが通じることは決してない。相手のことがまるまるわかるなんてことはありえない。
 だから、この文章を読んで僕の意図をそのまま受け取れる人はいないだろう。

 幼稚園児と接していると、いっそ言葉が通じなくて、わかりあえないことがはっきりした方が諦めがつくかもしれないと思う。
 わからないことを前提としていれば、時折通じたことが喜びに変わるから。

 自分の言葉や気持ちなんて半分も伝わればいいものだ。
 そんな心持ちで過ごしておくことが1番楽なのかもしれない。


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