見出し画像

なぜ気遣いをした方がいいのか?

 心遣いができることが賞賛される風潮があります。きめ細やかなサービスであるとか、細部まで行き届いた気配りによって人物の評価となりえる。
 つまり、相手からどう思われるかを前提に議論されているわけですけども、他者に対する心遣いって自分のためにするものだと僕は思っています。

 なぜ、そんなことを考えたかといえば、先日「優しい人ですね」と言われたからです。その言葉をいただいて、僕は違和感を覚えました。
 相手は褒めてくれているのですからありがたいです。相手の感性を否定するわけでもありません。ただ、自分が優しいかと自問してみると、疑問に感じてしまいます。

優しくするのは、気の合う人を見つけるため

 言い方は悪いですが、僕は打算的かつ独善的に他者に対して気を使います。それは以前「優しさは、そっと押しつけるもの」という記事でも書きました。

 ただ、なぜ打算的に優しくするのかということについては触れていませんでした。それは自分の評価を上げたいという気持ち以上に、気の合う人を見つけたいからです。

 世の中には色んな人がいて、全ての人と関われるわけではありません。だから、どのような人と一緒に過ごすのかということは大切な視点だと思います。
 しかし、その相手を見つける機会・方法を豊富に持っている人は決して多くないでしょう。
 あるいは、合コンなど特定の相手を見つける場はあっても、なんでも話せる同性の友人であったり、困った時に相談できる人生の先輩など、幅広く関係性を築くことは難易度の高い技だと思います。ある程度関わってみないとわからず、またそこまでのレベルに至らない人がほとんどだからです。

 だから、学生のクラスや職場など、ある程度長く関係性の続く場において、親密さが生まれやすくなってくるのでしょう。
 しかし、年齢を重ねるとそれほど時間が保障されている場はないので、短い時間で気の合う人を見つける必要が出てきます。

 そうした時に鍵となるのが気遣いだと考えています。
 自らの行いによってその選別をするのです。しかも、それはわかりづらければわかりづらいほどにいいのです。多くの人が見落とすようなものをわざわざ見つけて拾い上げてくれるのですから、きっとその人との親和性は高いはず。

 例えば、後から来る人のために扉を開けておいてやる。
 それは別にしなくてもいいことで、しなかったからといって怒られるわけでもありません。ただ、それをやることで自分の行為を見てくれている人がいるということが大事なのです。
 その行為を見てくれた人が自分に対してなんらかの印象を懐く。それによって、いつかなにかに繋がっていくかもしれない。
 マナーは守らなければ顰蹙を買いますが、気遣いはしなくても怒られず、行えば好意を生みやすい。であるならば、ちょっとの労力で気遣いをすることくらいなんでもありません。

両者で行い、見つける

 誰かとの関係性を築く時、必ず2人以上の人がいるのですから、自分だけで行う必要はありません。もちろん自分自身も他人の振る舞いを見ていますが、相手も見てくれているのです。
 両者が探していれば見つけやすさも2倍になります。だから、自ら能動的に関わっていくことだけでなく、相手から見つけてもらえばいい。

 そして、自分が些細な気遣いをすれば、他者が同じ振る舞いをしていても気づきやすくなります。自分の乗っている車種が街中で目につくのと一緒です。

 ただ、受け取ってもらうにはやっぱりまずは投げかけるしかありません。だから僕は気を配ります。
 ともすれば不毛で、気づいてもらえる保証のない効率の悪い気の遠くなるような種蒔きです。

 100人に1人しか気づいてくれる人はいないかもしれない。
 けれど、気づいてくれるその人とはきっと深い話ができる。本心を打ち明けられる友人がいないという人もいる中で、1人でもいるなら上出来じゃないですか。


 読んでいただきありがとうございました。
 気に入っていただけたら、スキ・フォローしていただけると嬉しいです。

読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。