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応援する側の質と一流

 僕はお笑いと舞台が好きだ。所謂趣味っていうやつだけれど、昔から好きだったわけではないので偉そうなことは言えない。しかし最近、ひと昔前の動画や本、記事を漁っていると、本当に憧れを抱き魅了される人と、かっこいいんだけどなんかいまいちだなあの人にある「」というものを感じた。

 お笑い(漫才やコントはもちろんラジオなどその他のコンテンツも含む)と舞台に共通して物凄く大事なものを挙げるとするならば何が思い浮かぶだろうか。

 僕は「間」(ま)だと思う。緊張の間、緩急のための間、テンポ管理の間、挙げればキリがないがとにかく「間」というものは、一つの作品(舞台に限らずライブやトークまで全て含む)の完成度や面白さ、感動、伝わりやすさ、聴きやすさなど様々ものを形作っている。感覚的に人や歌を「なんとなく好きだなあ」と思うのは、自分とその人が生む「間」の関係が心地よいからだと個人的には思う。

 話を「差」に戻すと、一流とそれ意外は「応援する側・される側」の形態が少し異なると僕は感じる。

 少し噛み砕くと、本当に客・ファンを魅了し、時には感動、時には爆笑をくれるアーティストは、「あくまでファンをファンとして捉えている」と思う。自分たちが最良で輝けるような笑いや涙などの良いリスポンスをくれ、応援してくれるファンをファンと捉えている。

 二流以下と思ってしまうのは、「ファンをファン以上と捉えている。」と感じるからだ。どういうことかというと、ファンのレスポンスに左右され一喜一憂したり、ファンが求めるからやる!という姿勢が見られたりする。

 後者は意見を取り入れ、需要に合っているからそういう形態でもいいんじゃないかと思われる。もちろんそれでいい。ただ、それが一流だとは感じないというだけだ。

 ただ、なぜそのような「差」のよって一流と二流が分かれてしまうのかというと、「ファンをファンとして捉えている」というのは、意見を汲みしすぎず、自分たちの望むことを中心としているため、ファンがそっちに合わせていく。そのため、ファンの「質」がどんどん上がっていくし、応援される側もどんどんやりやすい環境を生む。そういうサイクルを持っている。そんな、かっこいいファンに憧れを持ち、ファンになる人もいるのはこういうことだ。

 逆にそうでない場合、客の顔色を伺って、やりたいことをやれず、ファンを広げるために媚びたりする。そうすることで浅い客が増え、望みが叶わないとすぐに離れていく。離れていく客を見て、また新しい層に媚びる。そんな負のサイクルを生む。

 少し脱線するが、ファンの「質」とは先ほど述べた「間」と大きく関係している。質の高いファンは、アーティストにとって「心地よい」間をもたらしてくれる存在である。この間でちょうどいい笑い、この間でちょうどいい歓声、この間でちょうどいいブーイング。そんな作品を彩る一部として、存在している。

 逆に質の低いファンは笑いすぎや泣きすぎ、不毛なヤジをもたらして、作品を汚すものとして存在するのだと思う。

 こういった「差」が少しずつ現れて、気づいた時には天と地ほど分かれてしまう。

 ファンとして、一流を応援する側として、肝に銘じておかなければならないのは、自分たちはあくまでファンだということを意識しなければならないのではないかと思う。

 歌手のライブで変な声援を送ったり、お笑いライブで藪から棒にリクエストしたり、ラップバトルで「やり直せー!」と言ったり、舞台で許可なく撮影をしたり、、、

 そんなファンにはなりたくないです。

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