小説『Feel Flows』⑮

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(十五)
自分の存在意義とは、どのように求めるのだろうか。少し考えてみて、2つのことが頭に浮かんだ。
ひとつは、「最終的には独善的な思いをもって、えいやと求めるしかないかもしれない」ということ。もうひとつは、「これまで、こんなことを考えたことがなくても幸せに暮らせていた」ということ。もしかしたら自分は自分を不幸だと思いたいからこんなことを考えているのかもしれない。

唐突な質問かも知れないけれど、ひとつめの考えについてあなたはどう思われるだろうか。

例えば次のような主張をするひとがいるとする。

「僕は普段から自分の家の周りを掃除して、近所の方が気持ちよく生活できるようにしている。これはとても価値のあることだ。だから僕には存在意義がある」

実際にこう言われたなら、僕もきっとこころからの同意を示すと思う。
ただ、このひとのいう"価値のあること"を決めているのは他の誰でもなく話者本人である。それ以外のひとの主観は入っていないし、入ったとしても最終的に自分の価値を決めるのは自分でしかない。他者の意見はあくまでもその決断の根拠の参考情報となるだけ。これが僕の考えだ。

ここまでで伝わったと信じて、あえて「このひとに価値を感じない立場の意見」の例は挙げない(挙げるといかに僕がいじわるであるかの主張になりそうで、それは今回の趣旨とは違うのでやめることにした)。

さて、僕はいま存在価値があるのだろうか。
どうも、その質問に自信をもって答えることができない。
ふと、「少し前なら、他者とコミニュケーションをとるうえでユニークな意見をもつ立場の人間として価値があったかもしれない」と思ったが、いやいや、そんなこともないかと思い直した。

いつ、誰にそんなことを言ってもらえただろうか。自分でそう思い込んでいただけだろう。
僕は昔も今も、ユニークな価値なんかないんじゃないだろうか。

「いてもいなくてもいいひと」だろうか。

それもまた違う気がした。

「いないほうがいいひと」か。

うーんそれもちょっと。「いないほうがいい」とは誰にとって?思考が止まった。

冒頭に考えをまとめたように「自分の価値は自分で決めるもの」であるなら「いないほうがいいひと」とは「自分が自分の価値をマイナスの評価をしている」ということになってしまう。でもそんなことあるはずもない。自分は自分を肯定することしかできないはずと思うからだ。

過去の自分の行いについて「間違いだった」と否定したい気持ちが起こっても、今の自分は「間違いに気づけている」と認めるはず。自分は常に今の自分を肯定するはずだ。

今、自分がふと感じた無価値感は自分以外の主観を捉えたものだったのかもしれない。

僕はいったい、誰に気を遣って自分を無価値だと思うようにしているのだろう。
いったい、何のために自分が不幸だと思おうとしているのだろう。

そこが自身の状況を知るために重要な点かもしれないと思った。

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