小説『Feel Flows』⑭

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(十四)
先月、スーツを新調しに行きつけのお店に行った。
身につけるものが変わると気分も変わるかもしれないと思ったのだ。

ベテランのテニスプレイヤーも、ミスが連発したときにユニフォームを着替えることで気持ちを切り替えることがあらしい。何かで読んだことがある。

「気の持ちよう」は、精神力ではなく、物質の力で変わるものと思うと、肩の力が抜けるような気がした。
「物に頼らないで精神力でなんとかしないといけない」ということは大体において正しくないはずなのに、好まれる気がするのはなぜだろう。
「頑張っています」ということばは成果に結びつかないときにこそ使われるのだから、本来歓迎してはいけないはずなのに、いざそう言われると労いの感情を抱いてしまう不思議さと似ていると思った。

そのお店には魅力的な生地のスーツが揃っている。すべて欲しいが、財力がない。いくつかを試着させてもらい鏡を覗く。

2つの候補に絞ったタイミングで店主に声をかける。

「2つのうちどっちがよいか迷っています。値段の違いはありますか?」

「値段は全く同じですね。あとは、どんなときに使うかですかね。
仕事で使うイメージですか?」
と、即座に建設的な意見を返してもらえる。

「仕事で着ることを考えています。普段の自分のイメージを変えたくて」

「それなら、印象がガラッと変わるように、基調となる色を変えるという手もありますね。今は表に出していない生地もありますよ。試してみますか?」

「はい。是非」

こんなやりとりがとても頼もしく、癒されるようだった。

そして勧められたとおり、思い切って色違いのスーツ買うことにした。

会計を済ませた後、店主が「そうそう、そういえばね」と僕に話を切り出した。
買い物が終わったら話そうと、準備してくださっていた話のようだった。

「こないだお会いした人が、きりやまさんのことをご存じだったみたいなんですよ。
ある話をきっかけにわかったんですけどね。
その人はきりやまさんには会ったことないと言ってたんですけど、ユニークな発信をみて知ったとか」

「えぇ!本当ですか。
いやいや、僕なんて全然有名じゃないですよ!
たまたま、僕の知り合いだったんじゃないかな」

そうはいいながらも、僕が「きりやま」という名前でSNSで発信した内容を一方的に知ってくださっている方がいらっしゃっても不思議ではないと思った。

僕の控えめな応対のトーンに合わせてくれたのか、店主はそれ以上そのひとのことは話さなかった。

「では、またスーツが仕上がる頃に伺いますね」と去ろうとする間際、店主はこんなことばを僕の背中に投げた。
「きっとまた、ライヴ会場で会いましょうね」。

振り返ると、「にっ」と口元で微笑みを作り店主がまっすぐに僕を見ていた。

一瞬、店主は僕の近況を知っているのかなと思った。僕は何も話さなかったのだけど。

もしかしたら、直近のSNSの内容を見て推測はしていてくれていたかもしれない。または、ことば以外の僕の態度や様子から状況を感じ取ったのかもしれない。
いや、本当は全く気づいていない状況なのかもしれない。
よく考えれば、かけていただいたことばはごく自然なものだ。

真意は、わからなかった。

僕は、店主の目をまっすぐに見て
「はい。また、いつか、ライヴ会場でも会いましょう」と応えた。

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