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麗しき者 第7話

7.幹太と親父と義理の母
 幹太が産まれたその日。俺は下北沢で知り合いの劇団の芝居に客演で出演していた。マチネ公演だけだったので、終演後尚美が入院している曙橋にある病院に行った。受付で名前を言うと、4階にあるその病棟の待合室に通され一時間ほど待った。すると看護士さんが白いタオルに包まった赤ちゃんを抱いて俺のところに来た。「おめでとうございます!元気な男の子です。ご主人が着いたことを尚美さんに伝えたら急に。きっとご主人のこと待ってからこの世に生まれてきたんですね。ちょっと抱いてみます?」「え?」「怖くないですから。」幹太は軽かった。本当に神聖で壊れやすい純粋なものが自分の腕の中にいて、目をギョロギョロ動かし俺のことを査定しているようだった。涙が自然に流れた。「感動しますよね!ではお母さんのところに戻ろうか?」幹太は彼女に連れられ尚美のところに戻って行った。尚美とは会えなかったのでそのまま家へ帰った。ビールを飲んで今日の最高な幸せを噛み締めた。
 幹太の名前は西山の名前から一文字もらった。西山幹二郎。西山が不慮の事故で亡くなった日に尚美のお腹に命が宿った。俺の中では偶然ではなく西山が会いに来てくれたような気がしたからだ。太く長く人生を全うして欲しいという願いを込めて幹太。女の子だったら幹子だったかもだが、男の子が生まれてくるのではという確信がなんだかあって、それは揺るぐことがなかった。
 幹太は熱が出るとよくひきつけを起こしていたので尚美も俺もその時は気が気じゃなかった。
 幹太が3歳から5歳の二年間、保育園に通えることが出来、尚美も完全に仕事に復帰し、俺もまた芝居の仕事が増えてきたので、槇家の流れがとても良くなってきた。幹太は優しい子で争いが嫌いだった。幹太が遊んでいるおもちゃを誰かが使いたがったら、躊躇なく使わせてあげたり。お菓子を食べる時も自分の周りにいるお友達に遠慮なくあげてたりしていた。4歳の時の運動会だったか、2組に分かれてどちらの組が多く玉を入れられるかを競う運動会といえば定番の玉入れで、幹太は玉を入れることなく砂の上に何かをずっと書いていた。という不思議なことがあった。今でもそれが何だったのか分からないままだ。
 ある朝一本の電話が入った。「私、田嶋と申しまして、槙さん、お父様のヘルパーをやっているものです。」「はい。」「今朝、お父様のお部屋にお伺いしたら、返事がないもので、心配になって大家さんに鍵を開けてもらったら…床に突っ伏して亡くなっておられました。どうやらトイレを出た後に滑って転んで頭を打ってしまったようで。」「…」「昨日のことのようです。本日こちらに来て頂くことは可能でしょうか?」「はい。」「では、お待ちしております。」電話の前でしばらく立ち尽くしていた。「どうしたの?」尚美が聞いてきた。
「死んじゃった。」「え?」「親父が死んじゃった。」二人ともその日の予定をキャンセルして、電車で親父の住む大宮に向かった。電車の中で幹太はずっと黙って俺のことを見ていた。大宮からタクシーに乗り、大宮公園の方に向かう。幹太を親戚の家に預け、尚美と親父のアパートのある宮原へ向かった。アパートに着くと田嶋さんがすでにいて、親父が布団の上にいてすでに施されていた。「本来なら親族の方が来てからなんですが、1日経っていたのでわたしの方から頼んでおきました。」荼毘に伏する親父。鼻につく匂いは消えなかった。色々な手続きや親父の部屋を整理するので悲しんでいる時間はなかった。火葬の日、骨だけになった親父を見て初めて泣いた。遊び人だった親父。母親とは俺が三歳の時に離婚していて、親父の方に引き取られた。引き取られた割りには一緒に住んだことは一度もなく、俺は親父の母、祖母に育てられた。洋食屋を営んでいた祖母はいつも忙しく働いていた。彼女の口癖は「お前は公務員になりなさい。食いっぱぐれないから。」といつも言われていた。祖母が仕事を止め、老人ホームに入っていた時に一度だけ親父を連れて行ったことがある。その時祖母が親父に言った一言が衝撃的だった。「どちらさまですか?」
「どちらさまって…」あんな寂しそうな親父の顔をみたのは初めてだった。数日後、親父と親父が何故かずっと持っていた祖母の骨を沖縄まで散骨しに行った。
遺言はなかったが、昔親父が言っていたのを思い出しそれを実行した。「海は繋がっています。海を見た時に故人を思い出してあげてください。」と散骨業者の方が。龍と虎のような二人はどこかで仲良くしてくれているのだろうか?
 その3ヶ月後、今度は尚美の母が亡くなった。急だった。心筋梗塞で突然倒れたらしい。人間は自分の命をコントロール出来ない。いつ何が起こるのかもわからない。死の前では人間は無力だ。

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