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ディープネットワークを用いて桜島大正噴火(1914年)映像をカラー化してみました

モノクロで記録された桜島大正噴火(1914年)の映像をディープネットワークを用いてカラー化してみました.カラー化する大正噴火の映像資料は,私が個人で所有している,桜島大正噴火をテーマにした絵葉書を用いました.いずれも製作から100年近くを経過しているため,使用にあたっての著作権上の問題はないはずです.下の写真はその一部です.

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桜島の大正噴火の後にはこのような絵葉書がたくさん作られて,記念に売られていたのですね.

まず,モノクロ写真からなる絵葉書をスキャナで300dpi程度の解像度で読み取り,グレースケールでデジタル画像化して整理しました.

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そしてそれを,Web上で公開されているディープネットワークを用いた自動色付けプログラム3種(Larsson et al. 2016Zhang et al. 2016Iizuka et al. 2016)と自動着色機能のあるAdobe Photoshop Elements ver. 18.0によってカラー化を行いました.

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自動着色された写真は,ややコントラストに欠けていたり,色味の薄いものもあるので,自動着色されたそれぞれの画像をさらにPhotoshop Elementsで自動補正しました.

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ディープネットワークを用いた自動着色プログラムには,それぞれ一長一短があり,写真ごとに比較して,より良い結果が得られているものを採用することにしました.画像補正についても,自動ではなく手動で調整した方がより良い結果が得られると思いますが,素人の私にはなかなかむつかしいので,Photoshop Elementsで画像の自動補正することで統一しました.

それでは,カラー化した写真で桜島大正噴火(1914年)を振り返ってみましょう.

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磯海水浴場と大正噴火以前の桜島(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

この絵葉書の消印の日付は明治43年8月9日.消印が桜島大正噴火の3年半ほど前なので,写っている桜島は大正噴火以前の姿ということになります.大正溶岩が流れ出す前で,袴腰の台地が突出して目立っています.西郷隆盛,大久保利通や坂本龍馬など,維新の志士たちの見た桜島は,このような姿だったのですね.

桜島大正噴火は,大正3年(1914年)1月12日の10:05に西側山腹から始まりました.

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大正噴火発生直後(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

大正3年(1914年)1月12日10:00撮影とされる絵葉書ですが,桜島大正噴火の開始は10:05なので(鹿児島県,1927),撮影時刻に誤りがあるようです.この写真には桜島西斜面の噴火の10分後に始まったとされる東側の鍋山火口からの噴煙は見えませんから,おそらく10:05から10:15の間に撮影されたものでしょう.写真の画角から判断して,現在の鹿児島駅付近から撮影されたものと考えられます.


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大正噴火発生直後(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

同じく大正3年(1914年)1月12日10:00の撮影とされるものです.先の写真同様に撮影時刻は不正確ですが,桜島南岳山頂を挟んだ東側の火口からも高い噴煙柱が上がっているので,東側の火口が開口した10:15以降の撮影であることがわかります.大量の軽石を放出するプリニー式噴火がしばらく続くと,火口付近も火山灰でモウモウとして見えなくなるので,10:15以降の比較的早い時間に撮影されたものと考えられます.写真の画角から判断して,城山から撮影されたものと思われます.


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大正噴火発生直後(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

大正3年(1914年)1月12日10:30の撮影とされるものです.噴煙の形から1つ前の写真とほぼ同じ時刻(この写真の方が数秒後か?)に異なった場所で撮影されたもののようです.桜島の火山灰によるカスミ具合から考えて,この写真をプリニー式噴火開始から約30分後に撮影されたものと考えることは妥当なような気がします.桜島南岳の山頂は綺麗に見えていて,大正噴火は桜島の山頂部ではなく,東西両山腹で起こったことがよくわかります.帆掛け船が見られるので,海岸沿いで撮影されたものと考えられます.


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大正噴火発生2日後(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

噴火開始から2日後の1月14日に鹿児島港付近から撮影されたとされる映像です.プリニー式噴火による高い噴煙柱はなく,噴煙の高さは3000m程度でしかありません.西側火口から流出した溶岩が袴腰の大地に近づく様子がわかります.溶岩流の先端は,この時点ではまだ海には達していないようです.


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大正噴火発生2日後(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

噴火開始から2日後の1月14日に浄光明寺(現在:鹿児島市下竜尾町)から撮影されたとされる映像です.1つ前の写真とほぼ同じ状況にあります.標高の高い位置にある火口からの激しいプリニー式噴火はほぼ終了し,低い位置に開いた火口から勢いのある噴煙とともに,溶岩が流出していたと考えられます.先の写真同様,溶岩流の先端はまだ海には達していなかったようです.


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大正噴火発生3日後(Photoshop Elements + 画像補正)

噴火開始から3日後の1月15日に鹿児島港付近から撮影されたものです.西側火口から流出した溶岩は,この日,海に達したようです.蒸気船の後ろに湯気が白く立ちこめているのがわかります.熱い溶岩が海水と接触し,海水が激しく沸騰している様子が推察できます.


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大正噴火発生3日後(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

冒険決死隊によって噴火開始から3日後の1月15日に桜島の武集落付近から撮影されたものです.西側斜面に開いた大正火口から激しい噴煙が上がっています.噴煙の手前の黒く見える小高い丘が,現在,観光展望所のある湯之平です.集落があったはずの武ですが,一面が軽石で覆われてしまっています.桜島の北岳も黒く見える沢筋以外は厚い軽石に覆われています.


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大正噴火発生3日後?(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「磯より見たる西桜島の新噴火」となっています.撮影年月日は記されていませんが,噴煙の状況や桜島小池方面へ流れている溶岩の先端の位置から判断すると,噴火発生から3日後くらいに磯付近から撮影された写真と考えられます.


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大正噴火発生3日後?(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「鹿児島市街と噴火中の桜島」となっています.撮影年月日はわかりませんが,噴煙の状況や溶岩の先端の位置から,噴火発生から3日後くらいに城山から撮影された写真と考えられます.溶岩の先端の位置から判断すると,下の写真よりは前に撮られたもののようです.


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大正噴火発生3日後?(Photoshop Elements + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「鹿児島城山公園より桜島大噴火を望む」となっています.撮影年月日は記されていませんが,噴煙の状況や袴腰台地南側の溶岩の先端の位置から判断すると,噴火発生から3日後くらいに城山から撮影された写真と考えられます.溶岩流は海に達していたようでその先端からは白い湯気が激しく立ち上っています.上の写真とは若干アングルが異なっています.


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大正噴火発生4日後(Photoshop Elements + 画像補正)

大正噴火当時,日本の地震火山学の第一人者であった東京帝国大学の大森房吉教授は,噴火開始から4日後の1月16日に来鹿して現地調査を行いました.絵葉書のタイトルは「爆発当時大森博士一行の探検隊を搭せたる錦丸出帆の光景」となっています.錦丸とは軍艦の手前に見える白い帆船のことでしょうか?.写真右端には,今は大正溶岩に埋もれてしまった烏島が写っています.


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大正噴火発生4日後(Photoshop Elements + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「桜島山上より東桜島鍋山の大噴火を望む」となっていますが,地形から判断すると,この写真は現在の地獄河原の北縁の高免町付近から鍋山方向を写したものと考えられます.撮影年月日は1月16日となっており,噴火から4日目の東側の噴火活動の様子を知ることができます.高いプリニー式噴火の噴煙はなく,連続的な灰噴火を続けていたようです.


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西側火口の噴火の様子(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「横山大噴火」となっています.大正噴火当時,桜島の西側に開いた火口群を横山火口,東側に開いた火口群を鍋山火口と呼んでいたようです.撮影年月日は不明ですが,連続して噴煙が上がっている様子やマントを着た人物(大森調査隊?)が写っていますので,噴火から数日後に撮影されたものと考えられます.


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西側に流れた溶岩流先端の様子(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「赤水部落全滅の跡」となっています.大正噴火で西側に流れ出した溶岩は,海岸沿いにあった赤水集落を飲み込みました.流れる溶岩の先端(flow front)が急崖をなしているのがよくわかります.溶岩に覆われていないところには,葉が無くなって幹と枝だけになった木が散見され,その地表には白い大きな礫が転がっています.このあたりは大正軽石の大量降下域からは外れていますので,地面に散らばる大きな礫は西側に流れ出した火砕流によるものと考えられます.撮影年月日は不明ですが,馬(大森調査隊?)が写っていますので,噴火から数日後に撮影されたものと推定されます.


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西側に流れた溶岩流先端の様子(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「西桜島横山を全滅せしめたる溶岩と噴煙」となっています.背後には幹だけになった木が林立する袴腰の台地が見えています.西側に流れ出した溶岩は横山の集落を飲み込んだ後,海岸に達しますから,この写真が撮られた時には,乾いた大きな音をたてながら溶岩はまだ陸域を前進していたと考えられます.溶岩の手前は白く厚い軽石があります.上の写真同様,火砕流によってもたらされた軽石と推定されます.


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西側火口の噴火の様子(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「小池噴火口」となっています(撮影日時は不明).桜島の西側に生じた割れ目火口のうち,小池集落に近いものを小池火口と呼んだものと考えられます.小さな火砕丘ができていますが,現在の地形から,その位置を特定することは困難です.左側の小丘は現在展望所のある湯之平と推定されます.


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黒神埋没鳥居(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

現在,観光名所となっている黒神埋没鳥居の噴火直後の様子(撮影日時は不明)です.この地域の大正軽石の堆積厚は1m+αでしたが,鳥居のあった参道はもともと周りより低かったので,周囲の軽石が再堆積し,最終的に鳥居は2mの深さで埋もれてしまいました.


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軽石・火山灰に厚く覆われた黒神集落(Photoshop Elements + 画像補正)

桜島東部の黒神集落は,ほぼ1日程度の間に1m以上の厚さの軽石・火山灰に埋もれてしまいました(撮影日時は不明).この写真には,堆積物の表面にごく小さく浅い段丘地形が見られるので,噴火後の降雨によって土砂が活発に移動したことがわかります.後方には桜島の東斜面に開口した火口からの噴煙が見えます.


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軽石・火山灰に厚く覆われた黒神集落(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「降灰後洪水の為東桜島村黒神方面の惨状」となっています.このことから噴火後の降雨によって土石流が発生していたことは広く知られていたようです.撮影年月日は不明ですが,鍋山火口の噴煙の様子から,上の写真とほぼ同じ時期に撮影されたものと考えられます.


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陸続きになった桜島(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

東側山腹から流れ出した溶岩は,幅約400m,深さ約90mあった瀬戸海峡を埋め,文字どおり島であった桜島を大隅半島と陸続きにしました.溶岩によって海峡が閉塞された日については諸説ありますが,鹿児島県(1927)には「1月29日午後2時に全く接続してしまったらしい」という,佐藤伝蔵の報告が載っています.


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国分の降灰(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「鹿児島県国分駅付近降灰の惨状」です.桜島大正噴火の激しいプリニー式噴火による軽石は東南東方向に流れましたが,その後の噴火によって,桜島の周囲の広い範囲にも降灰がありました.撮影日時は不明ですが,国分付近では1~2寸(3~6cm)の積灰があったことが知られています(鹿児島県,1927).


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地震による建物被害(Photoshop Elements + 画像補正)

桜島大正噴火では,噴火開始(10:15)から約8時間後の18:29に鹿児島市直下を震源とするM7.1が発生しました.当時の鹿児島市の中心部は震度6の烈震にみまわれ,家屋,石塀,煙突等の崩壊が多数発生し,死者13人,負傷者96人を出しました.絵葉書のタイトルは「鹿児島市納屋下町家屋崩壊の実況」となっています(撮影日時は不明).


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地震による建物被害(Larsson et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「鹿児島市本通之惨状」となっています(撮影日時は不明).地震の発生は1月12日の日没後の18:29ですから,写真はその翌日以降に,現在の鹿児島市東千石町あたりで撮影されたものと推定されます.石塀が道路側に大きく崩れているのがわかります.鹿児島市とその近郊では,この地震に伴う建物倒壊や土砂崩れによって29人の死者を出しています.


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大正噴火時の鹿児島市内(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「県庁内に於ける郵便局の事務室及び四十七連隊の炊出実況」になっています.当時,鹿児島(伊敷)にあったのは歩兵第45連隊だったので,絵葉書のタイトルは誤記でしょう.噴火当日夕方に発生した地震によって被災した郵便局が県庁(現在のかごしま県民交流センター)で仮営業を行ったようです.また,桜島からの避難民や地震被災者の救済のために軍が炊き出しをしていたことがわかります.


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大正噴火時の鹿児島市内(Photoshop Elements + 画像補正)

鹿児島市内では,大正噴火当日夕方の大きな地震よる混乱や「毒ガスが来る」などの流言が飛び交ったために,一時的に治安が悪くなることがありました.そのため伊敷にあった歩兵第45連隊が鹿児島市内の警戒にあたりました.絵葉書のタイトルは「四十七連隊長以下将卒の警戒 鹿児島小川町四つ角」となっていますが,これも45連隊の誤植です.


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海域に広がった溶岩(Iizuka et al. 2016 + 画像補正)

桜島の西側の噴火は2か月程度でほぼ終息しました(東側の噴火は1年以上続いた)が,溶岩流はその後も流れ続け,桜島の西側に陸地を新たに広げました.写真は袴腰の台地の上から,現在の桜島港から溶岩なぎさ遊歩道方面を撮影したものです.溶岩からの湯気は,海に広がった溶岩の先端部ではなく,やや内陸側で盛んに出ています.このことから,写真が撮られた時には,溶岩の前進はほぼ停止していて,先端部はすでに海水によって十分に冷却されていたものと考えられます.


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海水浴する市民?(Photoshop Elements + 画像補正)

絵葉書のタイトルは「溶岩海中へ突出し海水熱して寒中浴に適す」となっています.鹿児島県(1927)には,佐藤伝蔵の報告として「16日に水雷艇に乗つて,溶岩の端から大凡一浬ほどの所の海水温度を測つてみましたら摂氏35度の温泉を示し,一面に海の上には湯気が立って居りました」という文章があります.絵葉書の写真からは海面上の湯気は確認できないので,真冬の噴火時ではなく,少し時間が経ってからの様子なのかもしれません.とはいえ,溶岩からはもうもうと湯気が立っていますから,噴火からそれほど月日が経った後のことではないのでしょう.


最後に

近い将来に桜島で大正クラスの噴火が起こると言われています.桜島大正噴火(1914年)は,20世紀に日本で起こった最大の噴火です.鹿児島はもちろん,日本という国家がこのクラスの噴火を100年以上経験していないことになります.鹿児島の人たちは桜島の近年の小さな規模の噴火に慣れてしまっているために,大正クラスの噴火の本当の怖さが理解できていないように感じています.平時にこそ学んでおきましょう.


本研究の一部に鹿児島大学地震火山地域防災センターの令和元年度調査研究プロジェクト経費を使用しました.


文献

Iizuka S., Simo-Serra E. and Ishikawa H.. Let there be Color!: Joint End-to-end Learning of Global and Local Image Priors for Automatic Image Colorization with Simultaneous Classification. ACM Transaction on Graphics (Proc. of SIGGRAPH), 35(4):110, 2016.
鹿児島県.桜島大正噴火誌,P466,1927.
Larsson G., Maire M. and Shakhnarovich G.. Learning Representations for Automatic Colorization. In ECCV 2016.
Zhang R., Isola P. and Efros A. A.. Colorful Image Colorization. In ECCV 2016.


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